見出し画像

私はミニマリストであり、ミニマリストでない

昨日新しい部屋に引っ越した。

しかし、荷物を運ぶのは今週末なので、前の物件の退去と次の物件の入居のタイミングがズレているのだ。しかし、用事の兼ね合いで新居に滞在していた方が移動時間が削減できるので、家具も何もない新居で二泊することにした。

一切の家具がない(カーテンすらない)ので、昨晩は寝袋で寝た。思ったより寝心地は悪くなかったが、流石にずっと寝袋で生活するのはキツそう。

自分の部屋は割かしモノが少ない方だとは思っていたが、家具すら置いていないがらんとした部屋にいると、まだまだ自分は大量のモノを抱えていたのだと気づく。

何もない部屋で一晩過ごしていると、藤岡みなみさんが「1日1つアイテムを取り出す」というルールで100日間過ごすという企画を思い出した。

この企画は凄く面白い。普通の人ならやろうと思っても中々試せないことだ。

この企画は私に多くのことを気づかされた。中でも一番印象に残ったフレーズは次のものだ。

なにかを欲しがるのは80日目くらいまでは嬉しい、その先はしんどい

藤岡みなみさんは80日目あたりから生活に必要なものは大体揃っていて、何のアイテムを取り出すか考えるのが苦痛だったという。

これは意外な気づきではないだろうか。普通の人の部屋には100個以上のものがあるので、その全てが必要になるのかと思ったら、実はそうでもないのだ。

つまり、私たちは部屋にそんなに必要ないものを大量に抱えて生きているということだ。

私は引っ越しを機に不要品を処分したつもりだった。しかし、何もない部屋にいると、前の部屋に残してきたものの大半が、別に必要のないものに思えてきたのだった。

一応全てのモノを新しい部屋に持っていくつもりだが、多分もっと処分することになるだろう。

こうした気持ちになると、自分は所謂ミニマリストなのか?という疑問が湧いてくる。

この疑問の解答は「ミニマリストの定義による」となるだろう。ミニマリストは別に国家資格でもないので、人によって定義がバラバラだ。インターネットで情報発信するミニマリストはそれぞれ異なったミニマリストの定義を挙げる。

ミニマリストの世間の一般的なイメージである「モノが全然ない」という定義に即せば、私はミニマリストではない。私は読書が趣味であり、紙の本を100冊以上保有している。過激なミニマリストは「紙の本を全て処分して電子書籍を買え」と主張するだろうが、紙の本が好きな私はそんなことは絶対にしない。別にモノが少ない生活を否定するつもりはないが、極端にモノが少ないミニマリストは一種の脅迫概念に晒されているのではないか。

ただ、本以外に関しては一般的な人よりモノを持たない傾向があるかもしれない。服はこのシーズン主に2着しか着ていなかったし、部屋にテレビを置いていない。

ミニマリストの定義を「必要なものだけ持つ人」とすれば、私はミニマリストだと言えるのかもしれない。もっと細かく言えば「自分にとって何が必要なのかを理解し、必要なものだけを持ち、不必要なものは持たない人」になるのかもしれない。私にとってテレビは不要品だが、100冊以上の紙の本は必要な本だ。

どの程度を「必要」の範疇に入れるかは人それぞれだと思う。生命活動の維持だけを目的とすれば、「必要」なものなんてほぼ無くなるのではないか。最悪家すらいらなくなってしまう。「健康で文化的な最低限度の生活」「趣味を楽しむ」「人生を有意義にする」など「必要」の範囲をどこまで拡充するかによって、必要なモノは変わってくるのだと思う。

結局、何を持って何を持たないか、ということはその人の人生哲学そのものだと思う。やや極端な言い方をすれば、モノを所有している理由を語れなかったら、人生の軸が曖昧になっているとすら言えるのではないだろうか。

皆さんも、部屋にモノが溢れていると感じているならば、一度それぞれのモノに対して「自分は何故これを所有しているのか?」と問いてみてはいかがだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?