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わたしとキティの20年

先日、珍しく実家の父から連絡が来た。
実家に残してきた、大量の日記や手帳をどうするか、という内容だった。

多分、読み返しはしない気がする。
ていうか、恥ずかしくて無理だと思う。

だけど、あそこには、わたしの10数年分の気持ちが、ぎっしりと詰まっているのだ。
そう思うと、なんだか捨てるのは忍びない。

初めて日記帳を買ってもらったのは、小学生の時だった。
白い表紙に、植物の模様の入ったやつ。

「あとで読み返したら、面白いよ。サボったら、サボったって書いておけばいいんだから」

父にそんなことを言われたのは覚えている。
20年以上昔の話だ。

実際、わたしが何を書いたかは記憶にない。
一冊目の日記を使い終えた頃には、中学生になっていた。

中学生になっても、わたしは日記を書いた。

その日あったことも書いたし、悩んでること、片想いしていた先輩のこと、短い小説のようなもの、とにかく思いつくままなんでも書いた。

多分だけど、書かずにはいられなかったんじゃないかなあ、と思う。

言いたいことも、考えてることも、山ほどあった。親や妹に話すことでもなかったし、かと言って話を聞いてくれる友だちもいない。

白紙のノートだけが、わたしの気持ちを全部受け止めてくれたんだと思う。

アンネフランクは、日記帳にキティと名前をつけていたと、何かで読んだ記憶がある。

日記帳に名前を付けることはなかったけど、友だちに話すように日記をつけていた彼女の気持ちは、ちょっとだけわかる気がする。

書いて書いて書きまくって、高校を卒業するころには、わたしの日記は20冊近くになった。

大学生になってからは、紙のノートがmixiの日記に移行し、社会人になってからは、ほぼ日手帳に気まぐれにメモを残したりしていた。

わたしは、自分のこと、何をやっても続かない人間だと思っていたけど、振り返ってみれば、書くことだけは、休み休み続けていたんだなあ、と思う。

今書いてるnoteだって、たまたま読んでくれる人がいるだけで、わたしの中では、昔書いていた日記の延長のようなものなんじゃないかなあ。

今でも、ラジオを聴きながら、その日思ってることをひたすらノートに書き殴っていたわたしの姿を思い浮かべることができる。

書いたからどう、ってことはないけどさ、わたしはあの時間が好きだった。

歴代のキティたちと過ごしたあの時間が、きっとわたしの書く原点なんじゃないかなあ、と、大人になったわたしはそんなことを考えている。

書く部のお題をお借りしました。
「これが私の書く原点」




 














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