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皿を割り星を刺青する
「小さな詩の本」を買った。
小さい頃は、学校の図書館で詩集を借りて読んでいたけど、大人になってからはすっかり縁遠くなってしまった。
私は多分、口に出して読みたくなるようなものが好きなんだと思う。
短歌でも、歌詞でも、詩でも。
ぱらぱらめくっていて、まだ全部読めていないんだけど、高橋新吉の「皿」と、吉増剛造の「燃える」が気に入った。
皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
倦怠
額に蚯蚓(みみず)這ふ情熱
白米色のエプロンで
皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
其処にも諧謔(かいぎゃく)が燻つてゐる
人生を水に溶かせ
冷めたシチューの鍋に
退屈が浮く
皿を割れ
皿を割れば
倦怠の響が出る。
この詩を読んで、まず台所のシンクに皿が積み重なる情景が思い浮かんだ。
前も書いたかもしれないけど、家事をしていると私はいつも賽の河原の話を思い出す。
積んでも積んでも崩される石。
洗っても洗ってもやってくる皿。
高橋新吉さんは、どうやらレストランかどこかで働いていたことがあるらしい。
それは、詩の冒頭のように、とんでもない数の皿が積み重なっていただろうな、と想像する。
皿洗いに限らず、毎日毎日同じことを繰り返していると、私ずーっとこのまま、おんなじことばっかりの毎日を送るのかな、と、ちょっと絶望に近い気持ちになることがある。
人生を水に溶かせ
冷めたシチューの鍋に
退屈が浮く
人生を水に溶かせ、どういうことなんだろう。
なかなか掴めないけど、自分という個体を一回なくしてみな、ってことなのかな。
肩書きとか、自分を覆っている様々なものを、一旦全部取り払ってみて、何が残るの?っていう感じなのかな。ふんわり、こういうことかな、って自分の中にはあるけど、説明が難しい。
それで、溶かしてみたけど、浮かんで来るのは退屈って、ねえ。でも、私のことを水に溶かしてみても、きっと似たようなものだと思う。
だから、その現状を抜け出すために、繰り返しの象徴の皿を割ってみる。皿を割れば倦怠の響き。
これは、結局、退屈なのは変わらないということなのか。それとも、退屈を壊した音がした、ということなのか。難しい。
もうひとつ、吉増剛造の「燃える」
黄金の太刀が太陽を直視する
ああ
恒星を通過する梨の花!
風吹く
アジアの一地帯
魂は車輪となって、雲の上を走っている
ぼくの意思
それは盲(めしい)ることだ
太陽とリンゴになることだ
似ることじゃない
乳房に、太陽に、リンゴに、紙に、ペンに、インクに、夢に!なることだ
凄い韻律になればいいのさ
今夜、きみ
スポーツ・カーに乗って
流星を正面から
顔に刺青できるか、きみは!
こちらは、なんだか、すごく勢いを感じる。
それこそ、自分が流れ星や、猛スピードの車に乗って、びゅんびゅんとどこかに向かっているような気分になる。
魂は車輪になって、って書いてるもんね。
「盲る」というのは、目が見えなくなる、という意味らしい。盲目的に、何かに没頭する感じ。
この一瞬一瞬を、刻みつけたい、ということなのかな。
似るんじゃなくて、なる、っていうのも、その対象と一体化したい、ということかな。そして、その一体化したい、というのも、ある種盲目的な感じがする。
最後の、
流星を正面から
顔に刺青できるか、きみは!
のところが一番好きだな。
スポーツカーで、雲の中を突っ切って、星の跡が顔に刻まれた感じがした。なぜか、右のほっぺの辺りのイメージ。
詩って、難しいけど面白いね。
全然的外れな解釈かもしれないけど。
二人がどんな方なのか、他にどんな詩を書いているのかわからないけど、私は詩を読んでいる間、高橋新吉と一緒に皿を割ろうとして、吉増剛造と一緒にスポーツカーに乗って、流星に正面から突っ込んでいった。
何か詩を読んでみたいけど、どれがいいのかわからない、という人には、おすすめしたい。
谷川俊太郎とか、中原中也とか、金子みすずとか、有名な人から、初めて名前を知る人の詩まで、色んな人の詩が収録されているから、お気に入りが見つかるんじゃないかな、と思う。
私も、もっと詩集とか読んでみようかな。
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