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お隣さん

田舎の小さな新興住宅街に引っ越してきました。10軒くらいの区画で周りは畑か田んぼ。

私たちとほぼ同じ時期に家を建て始め、ほんの少し先に完成して住みはじめていたお隣りさんのご一家は5人家族でした。

お隣さんは当時60代後半の男性とその奥さん。静かな息子さんと自己主張がはっきりしている娘さんはとっくに成人されているであろうものの独身なのか一緒に暮らしている様子。もう1人の息子さんは結婚されて独立されていました。



きっかけは弟がお隣さんのお家のとゆを壊したことだったと思います。後日お隣さんが怒鳴り込んできて、両親は謝り弟にも謝らせ、一般的な礼儀も尽くして修理もしました。

今思えばきっかけなんてなんでも良かったんでしょう。それから嫌がらせがはじまりました。

家を建て始めていた時期に様子を見に来た祖母の態度が気に食わなかった、謝罪しに行った母が不在だったので取り急ぎお手紙をポストに入れたことが気に入らなかった、趣味の釣りでとった魚を分けてやろうとしたのに捌けないからと父が丁重に断ったらとりあえず受け取るのが礼儀だろう

なんでも良かったのだと思います。

お隣さんと奥さんと娘さん3人がかりでたくさんたくさん嫌がらせをされました。怒鳴る追いかける庭にゴミを捨てる境界に汚い物を並べる、他には何があったかなあ、たくさんありました。おばあちゃんの家にも嫌がらせは行きました。

お隣さん側にある勝手口のライトが人感センサーでライトがいちいち着くのが気に入らないと言われて消しました。

勝手口においているゴミバケツが臭いと言われ移動しました。

勝手口の横についているキッチンの換気扇がクサイと言われ工事をさせられました。

互いの家の窓同士が隣り合っていて覗いてくるのが気にくわない。(我が家はカーテンを締切って開けることなど一切ない) 目隠しとして塀を立てろ。勿論お前らの金でだ。
塀を立てるスペースはなかったので、さんざん揉めた挙句に我が家の窓全てに目隠しをつけることでなんとか着地しました。


何をしても言いがかりは終わりません。家族の家の出入りはほぼ必ず罵声をあびせられ、下校時間に通学路で待ち伏せされて怒鳴られたり車で追いかけられたり友達にありもしないことを言われたり、学校に直接クレームを入れに突撃しに来たこともありました。



家族仲がよろしくない様子のお隣さんご一家でしたが、私たちをいじめる時だけは、敵の敵は味方理論とストレス発散になるのか仲良しで楽しそうでした。

お隣さんは自営業のクリーニング屋さんで敷地内に工場があるので配達以外は工場から常に見張ることができるのです。奥さんと娘さんはは何をしているか知りませんが、息子さんだけは無関心で何もしないけど止めもしませんでした。



私の両親は争いが苦手で反抗しきれるタイプでもなく、やりたい放題されるがままでした。

なかなか泣かない弟が泣きながら帰ってきた時は流石に心が痛みました。私は毎朝足元に足元めがけて水をかけられました。道へ水をまいているだけというていですが、まあそれなりにかかってました。

警察に相談しても民事不介入。特に担当地域の駐在さんは、めちゃくちゃ面倒くさがって間にたつのも嫌がっていました。どうやらお隣さんはその地域のお巡りさんの中でも有名な方だった様子。助けようという気持ちさえ感じられませんでした。



しかしある時、駐在さんより上の方からいかついお巡りさんが叱りに来てくれました。どうやらお隣さん一家は前のおうちでもご近所さんに嫌がらせをし騒動を起こして村八分にあい、逃げて引っ越してきたそうです。だから今の家ではターゲットは私たちだけなのか。

それら知っているいかついお巡りさんが、またやってるのかお前たち!と私たちを庇って叱ってくれました。静かになりました。私たちはとても喜びました。


ぬか喜びでした。

いかついお巡りさんは間もなく定年退職をされ、嫌がらせが出来ない間お隣さん一家の家庭内不和のストレスが溜まったのでしょう。再発まではすぐでした。

中学生になった私は美術部員と言う名の帰宅部だったのでスケジュールが分かりやすく、登下校は徒歩 対 クルマの追いかけっこのターゲットになりました。

轢かれそうになったり、真横に張り付いて罵声を浴びせられたり、幅寄せされて1m×1mの溝に落とされそうになったり、家の周り以外での嫌がらせはお隣さんがメインでしたが、たまに娘さんも参加して賑やかでした。

車で通れない小道に逃げ込んだら、家に帰って原付バイクに乗り換えて2人乗りでまた追いかけてきたこともありました。

いじめの対象は私だけではなく私の家族全員だったので、専業主婦の母は当時24時間家にいて何をしても罵声が聞こえてきて相当辛かったと思います。私たち姉弟が麻痺して泣きもせずに平然と帰ってくる様は、母にはどううつっていたのでしょうか。

少し遠い個別指導塾へ苦手な車で運転して送ってくれる時も、無理やりカーチェイスをさせられて、用もないのにガソリンスタンドに逃げ込んだこともよくありました。

中学2年生になってからバスケ部に入部したので、朝練放課後練土日も試合で忙しくなり遭遇回数は減ったし、毎日そこそこ楽しくて、その頃のお隣さんエピソードはあまり記憶にありません。引き続き嫌がらせをされていたはずですが、14歳にもなれば麻痺もお手のものだったのでしょう。

中学3年生になった頃は嫌がらせの危険度がエスカレートしてきましたが、当時持たせてもらっていた携帯電話で通報のフリをすると捨て台詞を吐いて去って行きました。キモの小さいお隣さんはひとりではそんな感じでした。


その頃友達に紹介された別の塾に入り値段相応のめちゃくちゃ厳しい授業と、両親の全面的な協力のおかげで偏差値が20上がった私は、地域の公立高校では2番目の高校に入学できました。両親は大喜び。お母さんの母校でもあったのでもっと嬉しかったです。

その上中学校の中では学年で20番目くらいで生徒会長にもなったことのない私が、何故か先生からの指名で卒業式の答辞を読ませてもらえました。お父さんもお母さんもニコニコで、この頃が私の人生のピークでした。

全部を己の力だと思って自信過剰な少女になりました。


母は自信がない人だったので小さい頃から「とそちゃんはしっかりしてるね」「とそちゃんは凄いね」「お母さんは弱いから」というので、「お母さんは私が守らなきゃ!」

弟はパソコンゲームばっかりに夢中になって「オタクキモイ」「アテにならない」

お父さんは私が合格した高校より15偏差値の低い高校出身で(平均)受験の時もそんなに頑張らなかったと言ってしまったために「意識が低い」「なぜ努力しないのか」「私が頑張らなきゃ」

扶養されている身でなんと愚かな高校生でしょう。そんな肥大した自信と責任感。さらに加速するお隣さんの嫌がらせ。


3人がかりの罵声はさらに酷くなり、周りのご近所さんはとっくに見て見ぬふりで挨拶もしなくなって久しいです。

危険過ぎるため車で駅まで行こうと乗り込むと、お隣さん一家が我が家のガレージの前に車を停めて通せんぼして、降りてきては私たちの乗る車の窓ガラスを割れそうなくらいバンバン叩きながら罵声を浴びせてきます。ひたすら目をつぶって耳を塞いで彼からが飽きて終わるまで耐えるしかありません。

家に入ろうとすると追いかけてきてドアに捻りこんできて中に入ってこようとしたり、車のタイヤがパンクさせられたことも何回も起こりました。

一応警察に全て被害届を出しますが、私たちの日常は変わりませんでした。もう何も信じていませんし頼りません。無抵抗に耐え忍ぶのみです。

両親には似ずに果敢に反抗心を示す私が気に入らないのかお隣さんにビンタされたこともありました。女のくせに肩で風をきって歩きよって!お前は稲穂じゃなくて麦じゃ!生意気なブス!〇高校のクセに常識を教わらないのか!誰にでも股を開くビッチ!お前なんて嫁の貰い手もないわ!方言で女性器の名前を叫んだり罵詈雑言日々下劣に。

高校生の当時の彼氏が家まで自転車で送ってくれた時も、見つかって追いかけっこの末掴まって、お隣さんと娘さんにひたすら無茶苦茶に怒鳴られたこともありました。彼氏くんは私を守らんと反論しようとしてくれたのに、慣れた私は「良いからあなたは黙って!」って言ってしまったんです。可哀想なことをしました。見かけた人が警察に通報してくれるまで続きました。


そんな環境な中でも、自信と責任感だけはあった私は、次第に体が言うことをきかなくなってきました。朝起きても思うように動けずしんどくてすごくだるい。学校を休む日も増えました。

優しいお父さんでしたが、学校に行かないのは気の持ちようだ、何故行かないのかと責められました。お母さんもがっかりしてました。

担任の先生は無関心、進級したら学年主任の先生に生徒指導室で説教をされました。通っていた高校はレベルの割には歴史とプライドの高い高校で、その高校出身の学年主任の先生のお説教はとても辛かったです。

しかし誰よりも責めていたのは自分自身だったことが体調を悪化させました。高校受験のおかげで高まりきった自信とプライドが、学校に通えず人生で初めて授業についていけなくなる自分を許せなかったのです。その上なんとか登校しようにもお隣さんのおかげで遅刻することも少なくありません。


高校2年生の終わりごろ、いつものようにパンクさせられた車のタイヤの被害届を出すと、聞き慣れない部署のお巡りさんが私たちを見つけてくださいました。

そこから急展開がはじまりました。

まずは私が学校に通えないのは、精神的な病が原因である可能性があるので病院に行くこと。
私がたまに反抗心として向けたガラケーのカメラの動画から、パンクをさせる証拠を見つけ出し立件してくれたこと。

その時お隣さん一家のお隣さんと娘さんはお巡りさんの建物にお泊まりさせられて、こっぴどく怒られました。

刑事事件としてはされたことに比べれば、そよ風のような罰しか与えられませんでしたし、私の精神病もお隣さんが原因と証明できませんでしたし、直接の謝罪もされず弁護士さんによる形式的な書類とお金だけで終わりました。私たちを長年見捨ててきた駐在所のお巡りさんも「こんなに酷いとは知らなかった」と言い訳して謝罪もありませんでした。


学校に通えないのは病気のせいと分かってから、両親は優しくなり、学年主任の先生には謝罪され、担任の先生は元から優しかったのがさらに頑張ってくださって3年生に進級できそうになりました。

しかしプライドを捨てきれない愚かな私は、周りの大人たちの努力を無視して「国公立の大学しか行きたくない。私立は学費も払えない。浪人するお金もない。だから留年する。」と言いました。

留年してもそんなすぐには回復できません。回復できない己をさらに責めます。当時よく分からず適当に選んで通っていた心療内科もめちゃくちゃで、高校を中退するまでそんなに時間はかかりませんでした。

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