【しをよむ127】栗原貞子「生ましめんかな —原子爆弾秘話—」——肯定には理由も要らず。

一、二週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

栗原貞子「生ましめんかな —原子爆弾秘話—」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

今週の詩の感想の前にすこしお知らせです。
これまで概ね週ごとに更新していた「しをよむ」ですが、
しばらく隔週更新に変更しようと思います。
このところ少し忙しさが続いていて、気持ちの余裕が取りにくいなというのがその理由です。
暑さが苦手なのもたぶん理由の一つなので、涼しくなったら毎週更新に戻すかもしれません。
これからもどうぞよろしくお願いします。

さて、今回の詩の感想に入ります。

読んで真っ先に感じたのは人の「生業」の強さでした。
重傷を負っていた産婆に「私が生ませましょう」と言わせた意志。
お湯もきれいな布もない中、手探りで赤ん坊を取り上げるのは、
たとえ万全の身であったとしても難しいのではないかと想像します。

おそらくは考える前に「産婆」として体が動いていたのであろうその人。
平時と同じく、産婆としての仕事に注力できたことは、
「地獄の底」に苦しむその人にとっても救いだったのだと感じます。

また、産気づいた母親にとっても。
食べ物も灯りも先の見通しもない世界に産まれることが子供にとって幸せなのか、
産まれる前も産まれた後も、幾度となく悩んだのではないかと思います。
その中で「私が生ませましょう」と断言し、全身全霊を我が子のために擲つ人がいて。
「産まれてほしい」「生きてほしい」というメッセージが、同じ場所に追い立てられただけの赤の他人だからこそ、何よりも強く伝わります。

場合によっては、赤の他人だからこそ与えられる存在の肯定があるのかもしれません。
それが何者であるか、どんな背景をもつかは知らないまま、
純粋に「やがて産まれるから」「そこにいるから」というだけで存在を肯定する。

ただただ存在を肯定し、祝福するだけ。
そんな赤の他人にしかできない無責任で無償の愛をゆるゆると撒き、自分へのそれもほのぼのと気付けるような生き方もよいかもしれません。

お読みいただき、ありがとうございました。
次回は与謝野晶子「君死にたもうことなかれ」を読みます。


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