【しをよむ116】濱口國雄「便所掃除」——私たちが人体である限り。

週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

濱口國雄「便所掃除」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

タイトルから察せられる通り、読んでいるうちに顔をしかめて鼻にシワを寄せたくなる感じです。
短い文で一つ一つの場面を描くことで、掃除を追体験している気にさせられます。おそらく作者がここで書いているのは男性用トイレなので、
女性の身である私が想像する様子とは多かれ少なかれ異なっているとは思いますが。

公衆便所(和式)を掃除するひとの語りなのですが、
私が想起したのは小学校の掃除のトイレ当番に当たったときのことでした。

いつ誰が汚したかもわからないものを掃除するやるせなさと諦めと、
やっているうちにだんだん心が無になっていく感じとが伝わります。
何気なく使っている公共の場を手入れする人がいて、
ただ、利用者が少ない時間帯(この詩では明け方です)にやっているから
気付きにくくなってしまっているんですよね。

駅などのトイレを使ったときに、ちょうど清掃係の人がいると
磨いたばかりの洗面ボウルを濡らすのが申し訳なくなってしまったり。
そういった感覚を清掃係の人がいないときでも保ち続けられるのが、想像力の一つのあらわれなのでしょうね。

トイレをはじめとする水回り、湿った場所、濡れた場所って、
普遍的に「掃除したくなさ」レベルがかなり高い気がします。
生命活動の根源に関わるところでもあり、それだけに使う頻度が高く、汚れやすく、自分以外の有機物も元気に活動しやすく。

その掃除したくない場所をなんとか掃除するため、
これまでの知恵は風水とか神様とか「美しい子供をうむ」とか色々モチベーションを上げる術を
考え出してきたのかな……と考えてしまいます。

近年だと「こすらない!」「置くだけ!」といったお掃除グッズが
スーパーやドラッグストアにひしめいていますね。
人間が身体を持っている限り、キッチン、トイレ、洗面所は
住環境から消えることはなさそうです。

人類の叡智と想像力とが、あらゆる水回りの平和を守るのでしょう。きっと。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は山之口貘「求婚の広告」を読みます。

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