【しをよむ040】金子光晴「湖水」——文学青年が湖を立ち去るとき。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

金子光晴「湖水」

(石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

なんとなくですが、ここで語られている湖は、実際のどこかというより
作者の心象風景のように思えます。
鬱蒼とした森のなかでひんやりとした空気に包まれているような。
虫も鳥もなく、水の底で魚が音もなく泳ぐばかり。

この詩の第一印象をひとことで言うと、「キザだなあ……」です。
「うすいカクテルグラスのふちに、僕は佇む。」
という一行を紹介すれば察していただけるかと思っています。
古本屋で購った本を薄暗い喫茶店でブラックコーヒー(たぶんモカ)をお供に
読み耽っている文学青年のような。
つまり、私は結構好きです。

どことなく哀しみを感じさせる詩ですが
この詩の中の哀しみは自分の掌に乗せて揺らせるくらいの大きさで、
短調の音楽を聴くときのように快いしんみりとした気分をもたらします。

湖の情景は語り手の心のなかにあるもののように見える一方、
湖に沈む「心」にはなぜだか物理的な重さを感じます。
手紙の束。贈り物。閉ざした箱。
過去の思い出を象徴するなにか。
生々しく新たな傷を作ったりはしないものの、見るたびに心をつつくなにか。

小さな痛みを振り払ってそれを手放せば、ぽしゃん、と音がして
それからは静かに沈んでいきます。
「この湖水にきて世界は、みんな逆さまにうつる。」という一文を踏まえると、
沈みゆく「心」は空へ昇っているようにも見えてきます。
この湖は「心」を二度と見えない場所へ隠してしまうだけでなく、
お焚き上げのように天へ送る役割も持っているのかもしれません。

「僕の心よ、かげりない瑩のあかるさをみまもりてあれ。」
という一節で「湖水」は締められます。
ちなみに瑩は「えい」と読むようです。『新漢語林』によると「玉に似た美しい石」のことだとか。
考えてみれば水中は光であふれています。
きらめくあぶく、魚の銀の腹、射しこむ陽光。
「心」は暗い水底に留まりながらも光を見つめ続けているのでしょう。

自分が光たりえないことと、かげりない光の美しさとの両方を認めたとき、
心は住家を見つけ、語り手は湖を立ち去るのだと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は丸山薫「北の春」を読みます。

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