【しをよむ124】長田弘「世界は一冊の本」——道端に積ん読がいっぱい落ちてる。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

長田弘「世界は一冊の本」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

ここで語られる「本」は、私の解釈では「描写され、読み解かれる可能性のあるもの」です。
たとえば私が生きてきたこれまで。時間の移り変わり。日常。
今まで誰も書いていなかったことでも、私が目を向ければそれは言葉に落とし込まれ、本になります。

市井の人の日記や家計簿なんかが数百年後に貴重な史料になるのは
まさに実世界のかけらが本になった例かもしれません。

世界は一冊の本で、その一部をなす私たちもまた本。または先週読んだ「わたしを束ねないで」の表現を使うならば「一行の詩」。
世界は壮大な連作短編集や、今使っている本『ポケット詩集』のようなアンソロジーとも言えそうです。

「本」を読むためには開いてページをめくること、中身に意識を向けることが必要です。
読もうと思わなければ読めないというのが、この詩で語られている、世界とのかかわりかたなのかなと感じます。

「見えない言葉で書かれている」世界を読み、それを見える言葉で表現する業がおそらくは執筆で、
でも世界そのものが本だとしたら改めて「書く」意義はなんだろう……とふと所在ない気持ちになりかけます。
実際に作品を書いているときは「私の頭の中にあるこれを早く外に……!」と
ひたすらイメージの底に潜っているので、こうしたことは滅多に考えないのですが。

ひとつ、おぼろげながら感じるのは「書く」ことは写真と共通点があるのかな、ということ。
私はカメラであり、撮影者であり、現像者であり、世界は私の心身を通るうちに世界±α、または世界' とでもいうべきものになるのです。

あるいは私はちいさな付箋。世界という本の気になった箇所に、いつでも見返せるように印を残して、ちょっとしたコメントもくっつけて。

とすると、「いつか行ってみたい場所」「いつかやってみたいこと」は壮大な積ん読……?
具象物としての「本」だけでもかなりの量だと思っていましたが、いよいよ百年くらいじゃ足りない事態になってきました。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は河井酔茗「ゆずりは」を読みます。

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