【しをよむ131】金子光晴「奴隷根性の唄」——時間と心身の余裕がないのは奴隷。

一、二週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

金子光晴「奴隷根性の唄」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

啓蒙主義的というか、ナロードニキというか、そんな印象を受ける詩です。
インテリ層、エリート層が被支配者を自立させよう、奮起させようとしながらもそうはならない苛立ちが如実に表れています。

語り手が想定していたのは Sound Horizon のアルバム『Moira』に登場するエレフのような、
あるいは『進撃の巨人』の主人公エレンのような、
服従を強いられながらも心には反逆の炎を燃やす「奴隷」だったのでしょう。
けれども実際はいくら呼びかけたところで鬱々としたまま応じず、
おそらくは鍵を開け、鎖を解いたところで奴隷たちが逃げ出すことはありません。

それで語り手は奴隷は所詮奴隷なんだと、おそらく現代では使えないであろう表現まで持ち出して憤っているわけなのですが。
こちらから見ると、学習的無気力だったり、生来からの刷り込みだったりで
動けない奴隷側の気持ちもじゅうぶん慮れるものではあるのです。

うっかりすると世界は狭くされてしまいます。
学校の中、新卒で入った会社の中、コミュニティの中、国の中など。
行き止まりの壁にもたれかかっている時には、その壁に向こう側があると思いつきにくいですし、
向こう側があると気付けても、それがこちら側よりいいところである保証はありません。

外に何があるかを知り、それを中と比べることで、おそらくは壁を越えやすくなるでしょう。
知識を得るには時間が必要で、思考力を働かせるには心身の余裕が必要です。
逆に言うと、時間と心身の余裕がない状況は警戒すべきなのかもしれません。

知識がなくても外へ飛び出していけることも稀にありますが、
そういうときは代わりに他者からの実用的な働きかけが要るのだと思います。
大航海時代だったら王からの援助とか、移民団だったら政府の募集とか。
エレン・イェーガーでさえ壁の外に行ったのは訓練を受けて立体機動を扱えるようになってからです。
お外、我々が徒手空拳で行くものではないです。

ここまで考えてきて、国立国会図書館に掲げられている「真理がわれらを自由にする」を思い出しました。
外を知ることで自分の逃げ道を確保しておけますし、自分のいる場所を選ぶこともできます。
ちなみにこれ、元はギリシャの言葉だそうです。
ここにきて Moira とうっすらリンクしました。

最初に書いた「啓蒙主義」的な結論になってしまいましたが、
おたがい自由人たれるように過ごしていきましょう。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は茨木のり子「自分の感受性くらい」を読みます。

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