【完結済み】ベルナール・リウー先生 御机下(アルベール・カミュ「ペスト」二次創作小説)
まえがき(2024/8/2追記)
こんにちは、稲見晶です。
アルベール・カミュの「ペスト」の感想を友人と話すうちに、
「転地療養の最中だった、ベルナールの妻はどんな気持ちでいたのだろう……」と想像がふくらみ、
彼女の後押しもあって小説として書いてみることにしました。
「ペスト」にて描かれている状況と重なりあうところも多い昨今、
本作品は有料記事とし、ご購入いただいた金額および「サポートをする」からご支援いただいた金額は、
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(2024/8/2~)【国境なき医師団】多くの命が危機にさらされている場所へ
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その場合はまた改めて募金先をお知らせします。
医療機関への寄付なのは、私の身内に医療従事者がいるからというのもあります。
ちょっと私的な理由でごめんなさい。
それではまえがきが長くなりましたが、そろそろ「物語そのものにはいるべき時」ですね。
なお、今後の更新分も本記事に書き加えていきますので、この先の記事の追加購入は発生しません。
1 (無料公開分)
ジゼール・リウーが療養所に到着したのは四月の末のことだった。この時季にはめずらしく、うすい雲が空をおおっていた。オランから付き添ってきた看護婦をのぞいては、人のすがたはなかった。
正面入口のポーチは二枚貝のようなカーブを外へむけていた。
「お疲れでしょうから、きょうは入所の手続きだけでけっこうです。あすには先生の診察があります」
手短だがつきはなしてはいない口ぶりで看護婦は言った。道中ずっと保たれつづけていた、礼儀ただしいよそよそしさだった。
二、三の書類をしるしたあと、ジゼールはこれから長きにわたって過ごすこととなる病室へ案内された。彼女のために用意されていたのは、四人用の相部屋の、右奥のベッドだった。正面ととなりはあいていて、はす向かいのベッドはカーテンでとざされていた。看護婦はその白い布ごしに声をかけた。
「ドニエさん、きょうから相部屋になるかたですよ」
「はいはい、ただいま」
年老いた女性の声がこたえ、カーテンがひらいた。
ドニエとよばれた老婦人はクロスワード・パズルを解いているところだった。ほとんどまっしろな巻き毛の持ち主で、鼈甲縁の眼鏡をかけている。その厚いレンズはしわにうもれた翠の眼をいっそう奥まってみせていた。
看護婦がかんたんに互いの名を紹介すると、ドニエ婦人は眼鏡をはずしてジゼールの顔を見あげた。
「ええ、ええ。おわかいんですから、すぐにもよくなることでしょうね」
ジゼールはひかえめな微笑でこたえた。
引きあげようとしたとき、ドニエ婦人はジゼールを呼びとめた。
「そんなにたいしたことじゃありませんけれどね。あなたもしかして、ショパンの異名をご存知ありません? ピアノのなに、と呼ばれていたのでしたっけ」
「すみません、いますぐには思いだせないようです」
ジゼールはまたあの微笑をうかべた。
ドニエの、すっかり彼女になじんだ佇まいの領分とは対照的に、ジゼールがこれから過ごす空間はすべてがそっけなかった。
ジゼールはからのサイドボードのうえに、ベルナールの写真をかざった。
翌日にジゼールは三十七度三分の熱をだした。主治医のクロヴィス・ギヨメがベッドまで来てあいさつと軽い診察をした。やせた年配の男で、日にやけた肌はどこかオリーヴの木を思わせた。
「疲れがでたものだとは思いますが、用心はしておきませんとな」
かれはほとんど囁きにちかい、抑制のきいた話しかたをした。
「食事はここまではこばせましょう。きょうはなるだけ眠るといいですな」
そのことばに、ジゼールはふと表情をやわらげた。医師がちらと向けた視線に気づいて、彼女は説明した。
「家を発つまえ、夫もおなじようなことを言いましたわ。かれも医者なんですの」
夫の名をつたえると、ギヨメはゆっくりとくりかえした。
「ベルナール・リウー先生か。きっとなにかの会合でお見かけしたことがあるでしょうな。こう見えてせまい業界ですから」
ジゼールはその「先生」という敬称を新鮮に聞いた。彼女にとって、ベルナール・リウーはすこし年上ぶるくせがある連れ合いであり、日焼けした厚みのある肌であり、レモンをしぼった魚のスープが好物な夫であり、毎日のやさしいまなざしと声であり、ときどきはささやかにぼんやりしている伴侶であった。
不意に感傷が襲いきた。ジゼールは二、三度のまばたきをしてやりすごそうとした。さいわいなことにギヨメはもう席をたちかけていた。
「それでは、お大事にどうぞ」
カーテンが閉められ、革靴の音が遠ざかる。ジゼールはしろい枕に頭をうずめた。微熱のせいばかりではなしに、目の奥がにぶく痛んだ。
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