【しをよむ074】金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」——生まれつき、あったりなかったりするというだけ。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

教科書で読み、朗読で聴き、合唱で歌った詩です。
やさしい言葉で書かれたこの短い詩は、もしかしたら暗誦できるくらいに親しんできたかもしれません。

あらためて読み返してみると、空を飛べて地面をそこそこ歩けて唄も歌える小鳥のアドバンテージが大きい気がします。

それはさておき、これは「できること」ではなく「できないこと」を語っているんですね。
空を飛べない私と、速く走れない小鳥。
きれいな音を出せない私と、唄を知らない鈴。

「私は走れる! 小鳥さんは飛べる!」という書き方にもできたのかもしれませんが、そうはしないことでこの詩にどこかしんみりした情緒が生まれています。

私と小鳥と鈴はそれぞれちがう欠点を持っていて、それでも「みんないい」。
飛べるから、走れるから、音が鳴るから「みんないい」というわけではないんだよ……という受容が、たぶんこの情緒のひとつめの理由です。

ふたつめの理由は、「できない」と比べないと「できる」に気づけないことへのかなしみ。
あるいは、「できる」を見たことで「できない」に気づいてしまったことへのかなしみ。

きっと「私」は同じような人間の友だちと遊んでいるだけだったなら、
走ることも歌うこともあたりまえで、ましてや「飛べない」「音が出ない」なんて意識することもなかったはず。
小鳥や鈴と出会ったことで、「人間に生まれついた自分」が見つかったのだと思います。

ここからはいくぶん詩を離れた記述になるのですが、
そうやって自分とはちがう、小鳥や鈴の境遇と出会ったときに
「ああ、小鳥は速く走れなくてたいへんだな、私は人間でよかったな」と感じるのは、
なんだか相手に対して礼儀正しくない振る舞いだな、と思います。
小鳥から「人間って飛べなくてたいへんだな。私は小鳥でよかったな」とか、
鈴から「人間って息継ぎしながら音を出さないといけなくてたいへんだな。私は鈴でよかったな」とか言われたら、たぶん気に障ります。

「私」が、走りや歌を教わった人、走るためのグラウンドとそれを管理する人、歌を生み出した音楽家たちなどに感謝する。
小鳥が飛ぶことを楽しむ、太陽や風を喜ぶ。
鈴がじぶんを鈴にしてくれた職人やじぶんを買い求めて鳴らしてくれた人を慕う。
そういった、自分の「できる」にまつわる外側の具体的な事物に対して愛情や感謝をいだくのは自分と相手との関係が築かれていますが、
境遇そのものへの愛着や感謝となると、自己満足で完結してしまっているような……。

なかなか難しいのですが、自分の、あるいは他者の境遇に由来する「できる」「できない」は優越も卑下もしないでフラットに受け止めたいな……と感じています。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は八木重吉「素朴な琴」を読みます。

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