【しをよむ061】永瀬清子「松」——「これから」の日々は続く。
一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。
永瀬清子「松」
石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)
先週はやむを得ない事情により「しをよむ」をお休みいたしました。
今週からまた再開していきます。
この詩ののどかで清々しい読み心地は、最後にいっそう清冽さを増します。
「いたましい戦争のためではなくて
美しい国を創くるために
曳きだされてくる松の木。」
「松」が発表された1948年にはきっとまだあらゆることが思い通りにならなくて、
価値観も世の中も全く再構築しなくてはならない渦中で、
それでも前へ進んで、二度と敵意に酔わないように、命を命として扱えるように、
懸命だった時代だったのだと思います。
読み込んでいくと「これまで」と「これから」の対比が鮮やかです。
焼けた木造の家のにおいと、瑞々しい松やにのにおい。
「銃後の守り」として残された人と、帰還して村を生まれ変わらせる人。
ほんのわずかな間に一変してしまった人間の村と、何十年と静かに養分を蓄え続けた松の木。
「これまで」のことは描写されていませんが、
描かれている「これから」の新鮮な喜びに触れると
そうではなかった時代も表裏のように透けてきます。
私にとっては「これまで」と「これから」の対比は読み解いて想像するものですが、
この詩が発表された当時の人々には、この詩ののびのびとした自由さと松の香りはどれほど身近に、清々しく感じられたことでしょう。
「公会堂が出来たら
よい事を話しあはう。
よい事を考へあはう。」
と詩の中に決意がうたわれます。
「よい事」というのはなんなのか、とても漠然としていますが、
それをひとりひとりが考えてよいし、考えなければならないのが、
「これから」の世の中なのでしょう。
そしてもちろん、この「今」、2020年3月1日も、
「これから」から脈々と続いてきた日であるのですね。
お読みいただき、ありがとうございました。
来週は吉野弘「I was born」を読みます。
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