【しをよむ130】川崎洋「なぜ」——科学と物語を生む。

一、二週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

川崎洋「なぜ」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

どうしても『アルプスの少女ハイジ』のオープニングテーマが頭をよぎります。
小さい頃に何度も観ていて自然とメロディーが。

「なぜ 風は
 新しい割ばしのように かおるのだろう」
から始まる、問いかけの数々。

さわやかな自然と美しい楽器の音をいっぱいに感じ取っているような気分です。
「なぜ フリュートはあんなに遠くまでひびくのだろう」
はまさにハイジの世界ですね。

この詩を結ぶのは次のことば。

そして 人は なぜ
いつの頃からか
なぜ
を言わなくなるのだろう

だんだんと大人になるにつれて世界が見慣れたものになってしまうからか、
外側から「なぜ」を封じられていくからか。
ハイジでいうとアルムおんじの小屋からクララのお屋敷に移った時が「なぜ」を封じられたタイミングだったのかな……とも感じます。

口笛もフルートも、高く細い笛の音で、
遠くまで届くのはたぶん周波数の関係とか風に乗って運ばれやすいとかいう理由があるのでしょう。
それからなぜ空に星が瞬くのか、なぜ雨は雫になって降ってくるのか。なぜすみれは青くてたんぽぽは黄色いのか。
きっと大人になっても持ち続けた「なぜ」は科学になり、物語になり、神話になるのでしょう。

私がなんでも「なんで?」「どうして?」と聞きたがる子供だった頃、
たとえば「どうして葉っぱはみどりいろなの?」と尋ねたときに
親から「葉っぱは緑になろうとしてなったわけじゃない。葉っぱが緑色なのは光合成をする葉緑素があるからだけど、葉っぱが『よし、光合成をするために緑色になろう』って思ったわけではない」というような答えをされて。
(もちろんもっと子供に向けた言い方だったとは思いますが)
なんだか難しくて求めていた答えと違うと感じた記憶があります。

私が聞きたかったのは、葉っぱが緑色であることの「動機」ではなくて
葉っぱが緑色であることの「意味」や「効果」であって、
でもそれを表現できるだけの語彙がなくて「なぜ」「どうして」に集約されてしまっていた、ということだったのでしょう。
「光合成をするために緑色になった」のか、「緑色であることによって効率よく光合成ができた(から多くの葉っぱは緑色に落ち着いた)」のか、という因果関係の区別が当時の私には難しかったのだと思います。
こうやって今考えると、親の答えは納得できるのですが。

さて、「動機」「因果」と言えば、この週末で京極夏彦の百鬼夜行シリーズを読み返していました。
そこでの探偵役中禅寺秋彦(京極堂)は、たびたび「犯行事実」と「動機」の逆転、因果の逆転を説きます。
「動機」は罪を犯してから遡って作られるもので、同じ背景を抱えていても、魔が差すタイミングが訪れなければそれは「犯罪」として発露せず、つまりは「動機」にもなりえない。
私たちは日常を恙無く送るために絶えず自分のなかで「因果」を造り上げている。

大学の教養で統計学をひとかじりしたとき、
当時の先生から「統計では『相関』は見えても『因果』は見えない。重々気をつけなさい」と教わりました。
因果とはつまり解釈なのでしょう。Sound Horizon の歌にありそうです。

犯罪動機に対する京極堂のスタンスに近いものを、私も抱いているように思えます。
もしかしたら百鬼夜行シリーズに影響を受けて私のスタンスが作られたのかもしれません。そのあたりの「因果」こそまさに考えても詮無きことですね。

私は、苦手な人に対して「『なぜ』この人が苦手なんだろう」ということはあえて考えないようにしています。
わざわざ当人がいない時にその人のことを思い出すのも楽しくない、というのも勿論ですが、
特に人に対しては「苦手な理由」を意識化してしまうと「だからあいつは嫌われて/排斥されて 当然だ」という論理に結びつきそうで、それはなんだか非常に危ういことだなと感じるのです。

「この人苦手だな」と意識したら、それは漠然とした「苦手」のまま深追いしません。
どうしたらなるべく関わらずに済ませられるか、とか、どうしたら自分の負担を最小限にやり過ごせるか、とか、そういうのは考えるのですけれど。

もともとの詩からだいぶ離れたところに来てしまいました。
遊ぶような「なぜ」をこれからも問い続けられますように。

お読みいただき、ありがとうございました。
次回は高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」を読みます。

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