【しをよむ125】河井酔茗「ゆずりは」(2回目)——譲ったとしてもなにひとつ失われずに。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

河井酔茗「ゆずりは」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

以前にこの詩を読んだ記事はこちら:

前に読んだものは旧仮名遣いでしたが、今回は新仮名遣いに改められた版です。
それだけでどこか印象が変わるものですね。
木造校舎の両翼に抱かれた校庭で、背筋の伸びた先生の話を聞くのと、
課外活動のキャンプでのびのびした指導員さんの話を聞くのと、の違いのような。

この詩を読み返して、「譲る/譲られる」は突然 100%まるごとをやり取りするのではないのだなと気が付きました。
「譲り受ける」と「譲り渡す」は同時に行われていますし、
太陽の光や潮騒や風のように、すべてのものに絶えず贈られているものもあります。

「譲る」という言葉が使われていますが、実は大人たちにとっても失うものは何一つなくて、
世界のあれこれはコンピュータのアカウント権限付与さながらに増殖していくものなのかもしれません。
年を経るにつれて、その権限を持ったままこの世というシステムからフェードアウトしていくので、見かけ上は新しいひとに「譲られた」と見えるだけで。

加えて、生まれてからしばらくは次々と新しいものがアンロックされていきますが、
年齢を重ねるにつれて、権限を得るために自分の意思や行動が必要になるというのもあります。
たぶん、選挙権の付与やお酒・タバコの許可あたりで、この世継続ログインボーナスは一区切りです。
以降はログイン後の行動で欲しいものをアンロックするのです。
その中にある「誰かに権限を与えられる権限」をよく考えて使えることが
「おとな」に求められることなのかもしれません。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は真壁仁「峠」を読みます。

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