【しをよむ110】阪田寛夫「練習問題」——例文の先に隠れ家が欲しかった。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

阪田寛夫「練習問題」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

英語を学び始めた時の例文を思い出します。
Hello, I'm John. I'm from the U.S.
ほんとうはジョンでもアメリカ出身でもないのに、
その文を読んだり書いたり覚えたりしていたこと。

それが嘘である限り、名前はジョンでもナンシーでもリーでもよくて、
出身国だってイギリスでもカナダでも中国でもかまわない。

I like soccer.
I like playing the guitar.
趣味だって、それが「例文」である以上は何に置き換えたっていい。

でも、「自己紹介しましょう」「あなたの好きなことを書いてみましょう」と言われると、途端に鉛筆が止まってしまう。
突然自分に向き合わされて、書き上がったら順々に発表することになるから、
クラスメイトからヘンだと思われない内容にする必要もあって
(その試みは度々失敗しましたが)。
「自分」というのはなかなか窮屈なものです。

同じ理由で、私は日記をつけるのも苦手です。
想像を膨らませて物語を書いたり、
この「しをよむ」のように何か媒介を得て考えを広げるのは好きなのですが、
日常の事実や感情をそのまま書くというのに慣れなくて。
空想の要素をひとつ——たとえばぬいぐるみのヨーゼフの視点から私の生活を書いてみるとか、家にブラウニーがいるつもりになってみるとか—— 取り入れれば、もしかしたら書けそうな気もします。
短歌や俳句など、生活の一時を削ぎ落として磨いて「創作」「作品」にしてしまうのも、できそうな感覚があります。

私が私を書くためには、そうした「自分 +α」が必要で、
その増えたαの分だけ、現実の私はちょっぴり隠れることができる。

この詩「練習問題」も

ぼくは だれそれが 好き
ぼくは だれそれを 好き
どの言い方でもかまいません
でもそのひとの名は
言えない

と、「ぼく」が好きな誰かの名前が隠れて、
その分読み手にぐっと寄り添ってきています。

仮にこれが「ぼくは Aさんが 好き」だったら
「がんばれ少年!」と見守る態勢に入ってしまうところですが、
「だれそれ」にすることで読み手にとっての「そのひと」を想起させるようになっているんですね。

国語の、あるいは英語の練習問題ごときが
私たちのほんとうを全部つまびらかにできると思ったら大間違い、なのです。

読みいただき、ありがとうございました。
来週は工藤直子「あいたくて」を読みます。

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