【しをよむ131】高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」(2回目)——食べて、生きるための力。

一、二週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

以前にこの詩を読んだ記事はこちら:

もう随分と前のことになってしまいましたが、友人たちとサファリパークに行ったことがあります。
その時に選んだのは、サファリゾーンを自家用車で巡れるコースでした。

4~5人乗りの車の窓から見ると、キリンは全容が見えないほど高く、
ライオンは間近に寝そべっているだけでどこか恐ろしく、
サバンナの中ではひ弱に思えるシマウマたちも、思っていたよりもずっと大きく迫力のある生き物でした。

きっちりと監視された環境下で、だいぶ飼い馴らされたであろう動物たちを見るのでさえも、動物園のガラスや檻越しに見るのとはまったく異なる印象を受けました。
動物は私たちのイメージよりもずっと大きくて強くて獰猛なのでしょう。

今の私たちにとっては動物園のライオンよりも、夜道に出るタヌキのほうが、さらには仰向けにひっくり返っているセミのほうが怖い存在になっています。
自動車と同じスピードで走るという駝鳥よりも、カラスのほうが怖いです。

私との物理的な境目を持たず、生きるために能力をフル稼働させている生き物は怖い。
牙や爪や筋肉をこちらへ向けてくる生き物は怖い。
けれども美しい。
チーターの走る姿も、ヌーの大群も、猛禽の広げた羽も。
生きるため、食べるため、食べられぬための力を、私たちは畏怖するのでしょう。

だからこそ、この詩で語られている駝鳥は「これはもう駝鳥じゃないじゃないか。」と書かれてしまう。
安全だけれど快適ではない環境で、駝鳥の駝鳥らしさを発揮できないままにぼろぼろになっていく。
餌は与えられるから生きてはいけるけれど、遠くの外敵を見張る必要も大地を駆ける必要もなくなって、駝鳥は駝鳥でなくなっていく。

食べて、身を守って、生きること。
そのためになされる営みの数々への畏怖を思い出させるようでした。

お読みいただき、ありがとうございました。
次回は金子光晴「奴隷根性の唄」を読みます。

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