【しをよむ106】吉野弘「I was born」(2回目)——「産む」側の不自由さ。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

吉野弘「I was born」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

以前にこの詩を読んだ記事はこちら:【しをよむ062】吉野弘「I was born」——全人類はけっこうぼんやりしているのかも。

前回は、すべての人が自分の意思とは関係なく「産まれ」、
自我が芽生えたときにはすでに数年が経っていることの不思議さを感じていました。

そこで、というわけでもありませんが、
今回、誕生に関して「産む」側の意思の介在を考えてみたところ、
なんだかとても切なくなりました。
ちなみにここでは「産む側」とは特に男女の区別なく、「親」になる者を指すことにします。

人間が子を生すためには性行為なり人為的な受精なりが必要で、
その意味では「産まれる」側よりははるかに能動的です。
けれども「産む」ことを望んでも叶わなかったり、
(あってほしくはないことですが)望んでいなかったのに子が宿ったり。
自分や相手の性別・体のこと、社会環境のこと、
いろいろ、いろいろ、ままなりません。

そう考えるとこの詩の中の親子の会話は、
「産んだ」側と「産まれた」側の会話でもあるのですね。
語り手の「僕」は自分が「産まれた」ことを諒解しても、いつか自分が「産む」側になることはまだ想像できていないようです。
これはきっと少年ならではの無邪気さで、
「僕」が少女であったとすれば、月経のせいで「子宮め……」と思ったりしている頃でしょう。
産まれてからこれまで、女性の一身体で過ごしてきた私個人の感想なので、
違う身体で過ごしてきた方の感じかたも知りたいところです。

そして「父」の心には「産む」側のままならなさが深々と突き刺さったままになっているように見えます。
男性と女性のふたりで「産む」側に肩を並べたとしても
妊娠〜出産で身体のリスクを負うのは女性で、
作中の「父」はそうした非均衡性を深くかなしみながら生きてきたのだと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は三木卓「系図」を読みます。


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