【しをよむ095】石垣りん「シジミ」——我が糧となるがよい。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

石垣りん「シジミ」

石原千秋監修、新潮文庫編集部編
『新潮ことばの扉 教科書で出会った名詩一〇〇』より)

わかるなあ、と共犯者の顔でにやにやしてしまいます。
貝の砂抜きって一瞬「飼ってる」気にさせられちゃうんですよね。
「明日には食べられるとも知らずに、無邪気にぷくぷく泡を吐いて……」とか
「おいしく食べてあげるから、元気に砂を出すんだよ」とか
心の中で語りかけたくなるような。
気分はヘンゼルとグレーテルに出てくるお菓子の家の魔女、あるいは青髭公です。

これを「心が浮き立つ詩」カテゴリにもってきた編集部のセンス……!

「しじみ」でも「蜆」でもなく「シジミ」と書かれているのが
そっけなさというかスーパーで買ってきたままの雰囲気を感じ取らせて、またいいです。
お前たちは喰われるためにこの家に迎え入れられたのだ!

シジミの砂抜きといえば、伊坂幸太郎の小説『グラスホッパー』。
作中に登場する殺し屋(コードネーム:蝉)がシジミの砂抜きをしながら
「人間もこうして呼吸のあぶくが見えれば、もうちょっと生きてるって実感が湧くんじゃねえかな」と独りごちるシーンがあるのです。
そのモノローグは「まあ、俺はそのシジミを殺して食っちまうんだけど」と続くわけですが。
「蝉」は難しいことを考えるのは苦手な、雇い主にも牙を剝くタイプのナイフ使いなのですが、
そんな彼がシジミを買って律儀に砂抜きしている様子を想像するとなんだか可愛いです。
何を作るつもりだったのでしょう。お味噌汁……? あの家、味噌あるんでしょうか。

ちょっと話が脱線しましたが、生きた動物を調理して食べる、というのは
今ではなかなか機会がありませんね。
海老や蟹がおがくずを敷いた箱に詰められて「活きたままお届け!」というのも時折聞きますが、なかなかおいそれと手が出せるお値段ではなかったり……。
釣りをする方だとまた違うのかもしれません。

もちろんあらゆる食事というものは命を喰らうこと、ではあるのですが、
ぷくぷくと呼吸していた、いたいけな姿を思い出し
「哀れなる二枚貝達よ、我が糧となるがよい!」と台詞を浮かべながらお味噌汁をすすると
「いただきます」と「ごちそうさま」がより一層趣深くなるようです。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週は谷川俊太郎「朝のリレー」を読みます。


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