【しをよむ108】まど・みちお「ぼくが ここに」——それは愛着が湧く過程にも似て。

一週間に一編、詩を読んで感想など書いてみようと思います。

まど・みちお「ぼくが ここに」

(田中和雄編『ポケット詩集』(童話社)より)

日曜日に更新を忘れていたので、本日更新です。
今回で、煩悩の数だけ詩を読むことに成功しました。

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

からはじまるこの詩を読んで、思い出した記憶があります。
小学校に上がるか上がらないかの頃、ブランコに乗るのが大好きでした。
よく行っていた公園には、ブランコが二台並んでいて、たいていはだれかが遊んでいるのですが、
その日には先客はだれもいませんでした。
「だれもいない」ブランコの片方に乗ると、私がいるほうは「だれかが使っている」ブランコになります。

当時、遊具の使いかたのきまりとして私が理解していたのは、
「だれかが使っていなかったら使っていい、だれかが使っていたら『かして』って言うか空くまでまつ」
というものでした。

自分がいる「だれかが使っているブランコ」と、隣の「だれもいないブランコ」。
いま乗っている「だれかが使っているブランコ」はだれかが使っているからじぶんは使えなくて、
隣の「だれもいないブランコ」は使われてないから使っていい。
で、隣のブランコに移りました。

そうすると今度は隣のブランコのほうが「だれかが使っているブランコ」になるから使えなくなって、
さっきまでいたほうが「だれもいないブランコ」になるから使っていい。
でも元いたほうにもどると、こんどはそっちが「だれかが使っているブランコ」になって……。

よくわからなくなって、しばらく二台のブランコを行き来していました。
「かして」「いいよ」と言ってみても、自分が相手ではどうやって替わってあげたらいいのかもわかりませんし。

たぶん傍から見ると何をやっているのかわからなかったと思いますが、
当時の私自身もわかっていませんでした。
今になって、ようやくちょっと言語化できるようになりました。

自分が、唯一無二の存在としてここに「いる」ということ。
全てのものが、唯一無二の存在としてここに「いる」ということ。
工場のベルトコンベアで流れていく大量生産品も、次から次へと箱から出てくるティッシュの一枚一枚も、
たしかな物質として、そのものだけの空間を占めているんですね。

お店にずらりと並んでいるぬいぐるみの一体が、腕に抱きとったとたん特別な存在になる。
何の気なしに買ったありふれたボールペンが、だんだんと手に馴染んできていつの間にか手放せない品になる。
どんなにそっくりなものでも、生まれてから消えていくまで全く同じ過程をたどるものはなくて。
この世のありとあらゆるものの中にそんな唯一無二の可能性や物語が秘められているのを思い、あまりの壮大さに頭の中がついてきていないようです。

お読みいただき、ありがとうございました。
来週(今週?)は草野心平「秋の夜の会話」を読みます。

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