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精神の向上と経済

 大根の廃棄を見たことがあるだろうか。
 政府の農作物調整によって、市場に出すと安くなりすぎてお金にならないので捨ててしまう大根がある。もったいない。
 こう言う経済的矛盾を抱えた今、我々はお金というもので世界を取り仕切る状況に、疑問を持つべきではないだろうか。貧しくて日本でも飯がろくに食えない人間がいる中で、一方では大根を捨てている。これを単純に、経済のために仕方ないという理屈ではぐらかす結果になってよいとは、子供でも思わないだろう。
 そもそも、経済を成長させる理由がほとんどない。ご飯は十分に存在する日本国で、お金を扱うがゆえにくいっぱぐれる人がいる状況を見れば、お金のシステムがないほうが良いんじゃないかと思うのも無理はないと思う。
 十分育った食料供給があるにもかかわらず、経済の自由を確保することに意味はあるのだろうか。自由とは、自由の増大を意味するのであり、これは経済が新しいことに着手する必要性があって意味のあること。自由は次の対応が迫っているときにしか必要性のないものだ。
 本当に今、自由が必要なものとは一体何か。それは多様性の要素ではないだろうか。人間が一人一人違っていてみんないいとする世の中こそ必要ではないだろうか。
 そのためには、精神の良質性を研鑽するあり方が望ましい。精神の競争を叶えるために、YouTubeと言う場を改善する手はどうだろうか。もちろん枠組みを設けての話である。
 例えば、宗教は精神性の範疇であろうが、その枠組みが今問い直されていることは確かである。同じように精神向上の枠組みを作り出そうとすることをしてみてはどうだろうか。
 枠組みとしては、人類が仲良くする活動を推進すること、施しを勧めることなどをあげてみたらどうだろうか。
 少なくとも、ベーシックインカムのような全員の食の余裕を確保する取り組みは必要で、競争は精神の時代に入っているのではないだろうかと言うのが、筆者の意見である。
 と書いていたら、反論が上がってきたので一緒に乗せておく。
①経済の自由による労働力の対応能力は必要であり、例えばSDG’sがそれにあたる。こう言った問題がこれからまた起きないとも限らないので、経済システムは残しておくべきだろう。
②食料が大量にあるのは、経済の自由競争を認めて、労働者のモチベーションを上げているからであり、経済システムをやめれば、食料は大量に減ることになり、社会はうまくいかなくなるであろう。
①は可能性があるので、経済システムを残しておくべきだと考えるのは妥当性があるだろう。
②に関しては、現経済システムの限界について言及する。経済システムは働く人と働かない人の間に生活の格差が生じるようにできており、現時点では決定的な「間」(例えば週何日働くかを自由に決められる状況)が存在していない。これは職業選択の自由の侵害を懸念するものである。簡単に言うと、例えば週3日働くだけでも認められる社会人と言う存在がないことが、人間のさらに尊重する精神を欠いているということがあげられると思う。働きたいのに適した仕事がない人が多すぎるのは問題であろう。
(この文章は あらかると が書きました)

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