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20201224

最近The Vinesをめちゃくちゃ聴き込んでいる。ゼロ年代のロック・リヴァイヴァルでロック・ビジネスに祭り上げられ、手酷く捨てられたバンドだ。ニルヴァーナ直系のグランジ〜ガレージ・ロックとしての側面ばかり注目されがちだが、コーラス・ワークが天才的で、一方では繊細でさみしくて途方もなく美しいバラードが無数にある。そう、その美しさこそが重要で、ヴァインズを特別なバンドにしている。

音楽性が似ているわけではないけど、ボーカルのクレイグ・ニコルズをみているとフジファブリックの志村を思い出す。いかにもロックスターらしい奇妙で破天荒な振る舞いで誤解されがちだが、彼は途方もない生きづらさを抱えた何も知らない内気な少年で、ただ音楽の素晴らしさにだけ取り憑かれていて、そのためだけに安全で退屈な子供部屋から外の世界へ飛び出してきた。でもビジネスに消費するだけ消費され、壊れてしまったらズタズタの状態で放り出された。彼は傷ついて故郷に戻り、今も引きこもってひたすら美しい音楽を生み出している。彼は生きていて、そして生きることは彼にとって音楽を生み出すことだからだ。ただ生きていることが彼を傷つけていて、それを癒やすために音楽を作り続けるんだ。彼はもうライブもやりたくなくて、ただアルバムを作り続けることだけを考えている。ファーストアルバムの印税を資金にしているようだけど、彼にお金のことや流通のことなんかが分かるわけもないし、次のアルバムがいつ届けられるのかはわからない。

志村もクレイグも、音楽業界という使い捨てで搾取のシステムのなかでまっすぐに凄まじい忍耐と努力でうまくやろうとした。でも結局すり潰されてしまった。二人とも一見言動が滑稽に見えるが、でもそれはかなり切実なSOSだったのだとおもう。どちらの曲にも切実な逃避願望が見て取れる。結局こういう真面目で変わってて不器用なミュージシャンが好きなんだよな。二人とも誰ともわかりあえず、深い孤独の底でひたすら音楽と向きあう。ほっとけないんだよな。

なんかさ、もう古くさくて人でなしなビジネスのシステムのなかで自分たちをいびつに歪めていくミュージシャンやあるいはそこですり潰されてしまうミュージシャンたちを見ているのがどうしようもなくしんどいんだ。フジファブリックのことは大好きだし、それはこの先もずっと変わらない。でもくだらないタイアップだとかしがらみだとかそういうものが幾重にもまとわりついていて、なんかすり減っていくんだ。それは彼らの問題だけじゃなく、みているこちら側の個人的な問題でもあるのかもしれない。でも志村だって本当はメジャーでうまくやろうとするよりも、もっとしなやかでしたたかないくつものやりかたで、数え切れないほどのとびきりヘンテコで豊かな曲たちを長く作り続けられたのかもしれない。ありえなかった世界を夢想することはちっともおかしなことなんかじゃない。今おれは志村が血を吐くような努力を重ねたのとはまったく逆のベクトルに向かっているんだ。いつだって遊動民のようにすり抜けてやる。

カート・コバーンのように死んでくれればと思ってるんだろう。そうやってどれだけのミュージシャンが壊れていったか。もうたくさんだ。でもどうしたらいいのかわからない。ロックなんかとっくに無効になった世界で、時代遅れのロックをどう求めればいい? わからない。でも志村正彦の音楽はロックで、クレイグ・ニコルズの音楽もロックだ。彼らは命の続く限りロックを鳴らし続けるし、彼らの命が尽きた後だってそれは決して鳴り止まない。原稿は燃えない。音楽は鳴り止まない。それに彼らの音楽を愛する人間がこれだけいるんだ、彼らは大してわかってないだろうけど。彼らには大げさに言ってやるくらいがちょうどいいんだろう。なあ、今日だって振れば耳から飛び出しそうなくらい頭の中はあんたたちの音楽でいっぱいだ。もう鼓動の一部みたいなもんなんだ。今もこれからも好きだ。少しくらい伝わってくれたらいい。

でも志村はカートのように死んだ後も消費され続けるようなことにはならず、忘れられることもなく、残ったメンバーたちに大切に守られている。志村は未だに過去の人ではない。2020年12月24日、あの寒い日から11年が経った。でも志村正彦と、志村のフジファブリックと一緒に生きてきた。今日という日にまたひとつ、標を立てよう。愛しい死者のために。


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