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新旧かなづかいなど

自然言語処理の説明に旧字体と新字体が出てきたので、坂口安吾の「新カナヅカヒの問題」などを紹介したい(青空文庫で読めます)。その前に、例えば、松陰先生の「親思ふ こころにまさる親心 けふの音づれ 何ときくらむ」を「親思う ころろにまさる親心 きょうのおとずれ 何ときくらん」と書かれた場合、感じ方がかなり違う。自分もときどき、わざと旧仮名使いで書くときがあるが、特に短歌や俳句はそちらのほうがぐっと心に入ってくるのではないだろうか。正規化、正規化と言ってるわりには、正規化とか辞書通りの意味とかがどちらかというとキライであり、自分が創造する人工知能は全部ごちゃまぜになると思う。自分の書く文章は、星新一の影響(新井素子、秋本治含む)が大きく、正岡子規や寺田寅彦先生、そして以下の坂口安吾のようなときどき「カタカナ」で表記するアタリがかなり影響大。おそらくカタカナ部分は辞書に載っているような意味で使っているのではないよ~、的な感じに近いと思われる。

以下、青空文庫から抜粋(全部抜き出すと長いので少し引用に留める)。

「人間は各人が各人の時代にだけしか生きられないものだから、その時代に於て最善の人生をつくつたり享楽したり耐へ忍んだりするべきもの、後世のためにまで自分がはからふオセッカイはいらないことだ。各時代が各時代の最善をつくし、誰もギセイにならずに、すこしづつ良くなる。さうしてバトンを渡す。
 我々が千年万年、否、人間最後の理想社会などといふものを設定し、今すぐそれを作らうなどと血を流すのはバカも極まる話で、未来の人々は未来に於てそれぞれ自らの工夫を施すに相違なく、そのぶんまで我々がするなどは未来へのボートク、人間へのボートク、人間の進歩といふものに対して無智モーマイなナンセンスにすぎないのである。
 社会生活の根本的な不変の憲章などといふものは天皇制でも民主々義でもない。人間は各人が各人の時代にしか生きてゐないといふこと、だから各人は各人の時代に於て、少々づつの改良を施し進歩をはかり、自分の幸福のために一時を耐へ忍んでも、後世の人のために耐へる必要はない。否、後世のために耐へたり妙なオセッカイをしようとするからムリとなり破綻する。さういふことだけが根本的な原則で、天皇制とか民主々義は枝葉のこと、この原則さへ確立してをれば、人間の平和と進歩に間違ひのあるべき筈はない。
 国語審議会の新カナヅカイは決して言語革命とか、最後案とかいふのでなしに、暫定的なものゝさらに進歩改良への一段階であるといふことは、その委員が声明してゐるところである。」
中略。
「然し、私は文部省にきゝたい。なぜ新カナヅカイが必要なのか。便利にするため、ムダな労力を省くため、ムダな学問をなくするため、さういふ理由だらうと思ふ。
 然らば、教育の方針がその原則によつて一貫しなければならない。私の言ふことは「新カナヅカイ」や「制限漢字」によつて一貫しろといふのぢやなくて、ムダな労力を省くため、実質的な学問だけを身につけるため、その原則、その方針を、徹底的に実施しなければナンセンスだといふことである。
 私の家に同居してゐる人の娘に女学校三年生(今年からはどう呼ぶのかよく知らないが、今までの呼び方で三年生)がゐるが、去年二年の時から試験の時、時々僕のところへ国語をきゝにくるが、私には二年生の本が分らなかつた。徒然草もある、万葉もある、枕の草子もある、バカバカしい。
 こんな古典は、それの必要な専門の学生にだけ教へるべきものだ。先づ何よりも文部省は、日本の古典、同時に漢文の古典をみんな現代語に訳す事業を始め、専門の学生以外は古語を習ふ必要なく、古典が知りたい時には、いつでも寝ころんで現代語で読むことができるやうにしなければならない。」

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