並行書簡-10
私は昨日めちゃ疲れやすくなったと言ったが実はこうして原稿を書いている時はその疲れを感じにくい。
私は『小説風日記』の執筆を終えてからというもの、いろいろとものを捨てている。物理的なものもそうだし、SNS のアカウントも、ツイッター・Facebook ・インスタ、全部消した。インスタは昨日予告して、これから消すところだ。なんの前触れもなしに突然消えるのはちょっとアレかな、と思ったので、予告と礼はした。
特にインスタはそうなのだが、別に消さなくてもいいんじゃないか、と思わなくもない。消したって、どうせお気に入りのレストランの営業時間の確認などには、使うのだ。でも、消す以外にはありえない。なぜなんだろう。
私は上の段落に顕在意識と潜在意識を平気で混ぜこぜにして記述しているから、表面的な論理としては矛盾している。「別に消さなくてもいいんじゃないか」かつ「消す以外にはありえない」である。
ハッキリ言って、人生の醍醐味である。「あれぇ、矛盾してるなぁ。」「この矛盾は、何がどーなってこーなってるんだろう。」である。オノマトペで言えば、間違いなく「ワクワク」である。
私は「顕在意識と潜在意識を平気で混ぜこぜにして記述」し、かつ、それを「アタシ混ぜこぜなの。」とあっさりと客体化し、当たり前に告白する。
私は顕在意識と潜在意識の双方を眺めて、区別したり、時には区別することをうっかり忘れたりしながら、文章を書いている。これは、私が顕在意識と潜在意識の双方を眺める視座から書いているということだ(①)。
『小説風日記』でさんざん書いたことではあるが、①を書いている私は①の視座を眺めて書いているのだから、①よりも高い視座にいる(②)。
②を書いている視座を③とすると、③はもちろん②よりも高い。はい、お察しの通り、キリがないです。
小説ではこれをマトリョーシカの層が増していくことに例えたが、サイズの違う同じ型のマトリョーシカを100個も200個も所有している者は、そうはいないだろう。つまり、物理的存在には物理的存在ゆえの限界がある。
これが視座という概念上の話になると、いよいよ本当にキリがない。「キリがないからここでおしまいにしましょ」と誰かが言ってくれないと、あるいは自分で言わないと、いつまでも続いてしまう。
この「いつまでも」は、“無限に”という意味だ。人は、“無限”を当たり前に認識できる。「あ、これ、無限に続くやつやんな」である。
“腹を決める”と表裏一体のパートナーは、“無限”である。「言葉ではなんでも言えるし、考え出したらキリがない。えいやっ、と決めちゃいなさい。」である。
おもしろいのは、考え抜いた結果の言葉と、そうでない言葉は、どういうわけだか、わかる。ちなみに、“考え抜く”は、「“考える”という工程を“抜ける”」だ。つまり、「考え抜いた」人間は、考えずに書いたりしゃべったりする。
そう書いて私は、「そ、そうか、そうだったのか」と、ちょっとビビっている。ビビっているのは、書かれる瞬間まで、それが私に潜在意識としてすら認識されていなかった、本当の意味での潜在意識だったからだ。
ここで、またしても矛盾が発生した。8つ前の段落から、引用する。
【引用始め】私は顕在意識と潜在意識の双方を眺めて、区別したり、時には区別することをうっかり忘れたりしながら、文章を書いている。【引用終わり】
「ビビっている」ということは、その潜在意識、眺められてねぇじゃん!ーーである。つまり、私は、「私は顕在意識と潜在意識の双方を眺めてーー」などと得意気に(?)書いているが、それを書く顕在意識と表裏一体のパートナーである潜在意識は眺められていなかったのだ。
ここまでの話をまとめると、視座について書けば書くほど視座が上がる。その上がった視座から顕在意識と潜在意識を見渡して、その両方を記述することもできる。それを「考えずに書いたりしゃべったり」すれば、「顕在意識と潜在意識を見渡して、その両方を記述する」者の「本当の意味での潜在意識」が浮き彫りになる。これは、無限に続く。
これに関して、今の私の個人的な感想を引用して、本日の筆を置きたい。
【引用始め】オノマトペで言えば、間違いなく「ワクワク」である。【引用終わり】
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