飽きる美しさと欠けて飽きない美しさ
上は𝕏のタイムラインに流れてきた画像。縦横に並んだガラスブロックとそのうちのひとつに穴が開いてヒビが走っている。私はこのガラスブロックに欠けて朽ちた部分があることが美しいな良いなと感じた。なんでだろう?
人間は基本的に規則性があり整然としたもの連続性のあるものを美しいと感じることが多いだろう。その法則から言えば、ガラスブロックの欠けはマイナス要素にしかならないはずだが、むしろ欠けがあることでより良くなっているように感じる。美しさを損なうものがあった方がより美しい、あるいは別種の良さを持つようになる。
その理由はなにか?おそらくだけど
美しいだけものは緊張するし飽きる
どんなに洗練されて規則的に美しくてもそのものからは「美しさのために完璧に計算して準備して仕上げましたよ!どうです?いいでしょ?」という制作者の意図や主張を感じさせてしまう。そういった美しいものの背景にある制作者の意図のわざとらしさや不自然さに一歩引いてしまう、あるいは強い主張に対して身構える気持ちが心のどこかに生じる。それが美しさに身を委ねてひたることを邪魔してしまう。鑑賞と続けるとだんだん良さを感じにくくなり制作者の主張だけが虚しさとして現れてくる気がする。
それ対して美しいものに欠けがある場合。作られたときから欠けができた今までに時間の隔たりが存在する。その存在が美しいものの背後にあった制作者の影を薄くして遠ざけてくれ、かつその欠けが起きた出来事やそれまでの流れを想像させて奥行きもでてくる。
つまり基本的には規則的なものが美しいが、その規則性が通常ありえないものであるほど制作者の主張が感じられそれが美しさを味わう上で雑味になる。欠けはその主張を薄め、さらに時間的歴史的な奥行きを与えて飽きがこなくもなる。だから欠けがあるものはより美しい良いものになる。
そういうことかなと思いました。
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