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尾瀬に関わって53年 -全盛期の尾瀬を知る笹原さん-



尾瀬にはたくさんのレジェンドと呼ぶに相応しい人たちがいる。
尾瀬はその自然や景色が有名だけれど
このレジェンドたちに焦点が当てられることはあまりない。
しかし、この人たちがいなければ今の尾瀬はなかった。

ここで紹介する、わたしのお父さん的存在の
”笹原さん”もその中の一人。

尾瀬に関わって53年が経つという彼は今年73歳になる。
わたしはそのうちの10年しか笹原さんとは関わっていないけれど
彼を見ていると
「あぁこういう人が山で生きてきた男の人なんだな」
と、ITやテクノロジーの発達した現代には珍しい
特別な野性味を感じて尊敬せずにはいられなくなる。

林業をやっていたこともあって
山の道具の扱いも手慣れているし
何よりものを粗末にせず
使ったものの手入れや片付けの仕方に美しささえ感じたりもする。

そんな尾瀬の山男、笹原さんに
尾瀬と共に歩んできた人生を少しだけ聞いてみた。


尾瀬に関わって53年

「昭和26年に沼田の沼須町というところで生まれました。尾瀬のバスが沼田駅から出だしたのは昭和30年代後半だったと思う。尾瀬の案内所も駅前にあったかなぁ。」

笹原さん

タモリさんが賞賛したと言われる
河岸段丘のある沼田市で生まれた笹原さん。
群馬県立利根農林高等学校(現:群馬県立利根実業高等学校)で学び
その後、昭和45年に群馬県利根郡片品村大字戸倉にある尾瀬林業株式会社(現:東京パワーテクノロジー株式会社 尾瀬林業事業所)に就職。
しばらく伐採の仕事を行った。

「大清水線とか富士見下線とか津奈木線とか、伐採に行っていたよ。」

笹原さん

昭和51年から会社の命令により尾瀬の山小屋で働くことになる。
実はこの前年に笹原さんは結婚。
新婚であったにもかかわらず、家をあけることになってしまったそう。

昭和の尾瀬

「当時は山小屋の予約は電話で受けていて、東京でほとんど受けていたね。戸倉の事務所にも電話が来ることがあって。その宿泊名簿を歩荷さんが山小屋まで運んで持ってきてくれていたよ。昭和51年に東電小屋、52・53年に至仏山荘、それから支配人になって54・55年は元湯山荘、56年に尾瀬沼山荘。それで尾瀬沼山荘が改修になるからって山から降りて、58年と59年にまた尾瀬沼山荘で働いた。なかなか山から降ろしてもらえなくって(笑)。東電山の家っていうのも尾瀬沼山荘の近くにあって東電の人だけ泊めていた施設があった。当時は尾瀬沼山荘の周辺にはたくさん建物があって、薪小屋とか乾燥室とかもあったよ。」

笹原さん

尾瀬に山小屋の仕事で入る前は尾瀬沼の船の解体も行ったという。
実は尾瀬沼には、渡船があったのだ。

「昭和47年に解体したっけなぁ。ちょうど尾瀬の道路計画の反対運動なんかもあって、自然保護の意識が高まった時代だった。長蔵小屋の船と一緒に46年に尾瀬林業の船も廃止になって。それで船の解体に行ったんだよ。でも、この渡船には乗ったことがなかったなぁ。浮かんでいるのも見たことがなかった。当時は尾瀬ヶ原にばかり仕事で行っていたからね。解体したあとは現地で燃やしたんだよ。」

笹原さん

船を解体したと聞いてちょっと驚いたわたしは思わず、
「船の解体は衝撃的なことではなかったですか?」と聞いていた。

「衝撃的だっていっても、当時の時代の流れだったからね。しょうがなかった。」

笹原さん

さらに道路計画のことについてもこう聞いてみた。
「道路が開通しなかったことについては、群馬県の人たちはどう思っていたと思いますか?」

「道路が開通しなかったのは群馬県としては残念だったと思うよ。結局人の流れが増えるわけだから、戸倉の人も期待していたと思う。難しいよね、保護と利用っていうのは。俺が会社に入ったときはまだ大清水から道路開発のブルドーザーが動いていたな。平野長靖さんなんかとも行き合ったりしていたよ。俺なんかは会社に入ったばかりの小僧だったからあんまり話すってことはなかったけど。」

笹原さん

ちなみに笹原さんが会社に入った頃の戸倉〜鳩待峠の様子はどうでしたか?

鳩待峠までの道は舗装されていなかったよ。少しずつ少しずつ舗装されていって。平成9年とか10年に鳩待山荘でも働いたんだけど、その時は交通規制がされていて、駐車料金の徴収もやってたよ。

笹原さん

※尾瀬の歴史が気になった方はこちらもご覧ください↑


冬季のやまごもり

「東電の気象観測を委託されて、尾瀬沼で12月〜3月に尾瀬林業の職員が越冬していたこともあった。1ヶ月交代で12月にきていた人たちは1月に除雪にきた人たちと交代して、1月にきた人は2月にきた人と交代してっていう感じで。気温を測ったり尾瀬沼の水位の報告をしたり、日中は除雪もしたよ。あとは辺りを歩いたりね。だけど吹雪いていたことが多かったから本を読んだり、テレビをみていたりもしたよ。平成になるくらいまでは気象観測の越冬はやっていたと思うな。長蔵小屋も越冬していてお客さんがきていたこともあったと思う。」

笹原さん

オーバーユース時代の尾瀬の山小屋

「混み具合を肌感覚で言うとずーっと多いって言うイメージしかない。100万人きていたんじゃないかって思うくらい多かった(笑)。各山小屋には当時も定員があったけどあってないようなもので。例えば東電小屋の定員が250人だったとしたら700人くらい泊めたこともある。1畳に二人で計算して泊めていたよ。でも定員予約制が導入される前は週末の金曜・土曜は朝日・毎日・読売の旅行会社の予約でほぼ埋まっていた。それなのに天気が悪い日は帰れなくなったフリーのお客さんが泊めてくれって山小屋に来る。どこの山小屋も断ったりするんだけど、山小屋は避難小屋の役割もあるから結局泊めることになるんだけどね。もう部屋は予約のお客さんで満室だったから廊下とか、乾燥室とかそう言うとこでもいいかってお客さんに聞くと、お客さんも夜露が凌げればいいですって泊まるわけで。でもね、団体の予約も漏れていたりして、たまに2・30人漏れていたりする。添乗員さんに怒られながらも一番スペースの広い食堂をあけて、ゴザを敷いて泊まってもらった。布団の予備は結構あって布団に困ることはなかったけどね。こう言う感じだったから『おそろしいな、山小屋って』って思っていたよ(笑)。この時の従業員は10人くらいでやっていて、とにかく寝たような、寝ないようなでやっていた。食事も5回戦とかやったりしていて。夕食が終わると次の日のお弁当のおにぎりも夜の9時とか10時ごろまで握って、そこから朝の3時には起きる。それで朝ご飯の準備。朝ご飯なんかだと5回戦だと待っていられなくて食べないで帰る人もいて。毎日ではなくて週末だけだったけど、毎週こんな感じだった。尾瀬林業の山小屋は夕食の後に尾瀬の自然保護の話もしていたよ。30分くらい話をするから花の話とか、尾瀬の季節ごとの見どころの話もしていた。まぁでもこんな状態だったからお客さんから混み過ぎだって山小屋組合に批判も来るようになって定員予約制になったんだよね。本当に大変だったよ。あとは山小屋ってチームワークが大切だから、もし合わない人がいると休みの日に山から下がってまた山に戻ってくる時には足が重かったね。」

笹原さん

オーバーユース時代の尾瀬の山小屋を知る笹原さん。
当時のことを話す笹原さんの顔には苦笑いが浮かんでいたけれど
なんだか誇らしげでもあった。

この当時、日本は全国的にハイキングがブームになっていた。
昭和30年代後半からは尾瀬ブームが起きて、尾瀬は人で溢れたという。
この時に山小屋で働いていた人たちの苦労は計り知れない。

当時の救助活動

そんな忙しい中でも山小屋の人たちは
遭難者の対応や救助も行わなければならない。

「亡くなった人もいてね。元湯山荘にいた時は燧ヶ岳に登った人が亡くなったこともあった。至仏山荘にいたときに対応した方はもう亡くなっているな、と思ったんだけど検死をするまでは亡くなっていると判断できないから、鳩待峠まで運んで行って、鳩待峠で検死してもらったりした。救助隊は最近は尾瀬の中にきてくれているけど、昔は鳩待峠まで小屋の人たちで連れてきてくれって言われていたから山小屋のスタッフたちが担架に乗せて運んでいたんだよ。鳩待峠で消防隊が待っていた。だから救助要請があると山小屋のスタッフ同士で小屋から何人出せるか話し合って、現場で対応することが普通だった。緊急の時は医者がヘリに乗ってきたこともあったよ。」

笹原さん

わたしが笹原さんと出会ったのは平成25年。
山の鼻ビジターセンターの所長になっていた彼のもとで働き
山の仕事ならでは、食事や生活も共にした。
そこから早10年。

笹原さんと話していると、たくさんの尾瀬の歴史が見え隠れする。
笹原さんは山小屋の代替わりを2・3代見てきた人でもあり
今では各山小屋の支配人よりも年が上になっていることが多い。

観光目的で訪れる人たちとは違う
「働く場所」として尾瀬で生きてきた人たち。

彼らの話を聞いて思うことは
”尾瀬は何も変わっていない、変わったのは人間の関わり方だ”
ということ。

尾瀬に訪れる人たちに尾瀬の歴史を含め
全てを知ってもらうのは無理だけれど
尾瀬に関わり続けてきた人たちのことは
もっと知ってほしいと思ってしまう。

尾瀬はたくさんのレジェンドたちがいてくれたからこそ
今日もその素晴らしい姿を残してこられたのだから。

(2024年2月3日取材)

※笹原さんの記憶を頼りにお話を伺ったため、記憶違いがある場合もあります。事実とは異なる点ももしかしたらあるかもしれませんが、何卒ご了承いただけますと幸いです。

※「尾瀬日和」としても情報発信をしていきますので、
尾瀬日和のnoteもよかったらご覧ください!


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