19世紀の「ロシアかぜ」の原因はコロナウイルスか?

<第8回>

 スペインかぜに先立つこと四半世紀、記録が残る最初の呼吸器感染症パンデミックとされるのが、19世紀末、1889年〜1893年にかけて世界中でおよそ100万人を死亡させたといわれる「ロシアかぜ(Russian flu)」である(表参照)。ただし確実とはいえないが、歴史上の文献からは、インフルエンザによるパンデミックが1510年以降、何度か発生したと考えられている[1]

 ロシアかぜパンデミックは、1889年5月に当時ロシア帝国領だった中央アジアの都市ブハラ(現ウズベキスタン)ではじまり、11月までにはロシア帝国全土に広がった。そこから北欧を経由してヨーロッパ全域に拡大し、さらに北米に到達するのに2か月もかからなかった。

 当時ロシア帝国の首都だったサンクト・ペテルブルクでは、12月1日にはじめての患者が発生した。バルト海に面した人口100万人の大都市で流行は5か月続き、18万人が発症した。ロシアかぜは狭いバルト海を通じて北欧、そしてドイツ、ポーランドへと伝播し、12月下旬にはヨーロッパ中がその波に飲み込まれた。

 フランスには、1889年11月にロシアかぜが到達していたが、当初は罹っても比較的軽症で、発症後4日間ほどで回復した。ところが12月後半になると様相が一変する。重症の肺炎を発症する患者がふえ、死亡者も200人に達した。ピークは12月28日で、250万人のパリ市民のうち18万人が発症した。患者が殺到した病院では、治療用に急ごしらえのバラックやテントが設けられた。感染はさらに国じゅうに広がった。対岸のイギリスでも同じような状況だった。アメリカにおける最初の感染者の記録は12月18日で、流行は翌1890年1月12日をピークに5週間つづいた。流行は東海岸から中西部、さらに西海岸へと広がり、そこからメキシコを経て南米にまで達した。1890年春にはアフリカとアジアにも波が押し寄せた。

写真 ロシアかぜの状況を伝える当時のフランスの新聞
出典:National Museum of Health and Medicine

 これだけ短期間に感染が広がったのは、感染力の高さに加え、船舶と、当時敷設が進んでいた鉄道によって感染者とともにウイルスが運ばれたためだ。産業革命以来、都市への人口集中が進んでいたことも大きな要因と考えられる。

 ロシアかぜはその後数年にわたって流行の波を繰り返し、そのかんに約100万人が死亡したと推定されている。スペインかぜの最大1億人には及ぶべくもないが、致死率が0.1〜0.28%と低かったにもかかわらず、これだけの死亡者が出たのだから、どれだけ感染力が高かったかわかるというものだ。当時の世界人口は15億人程度だったから、致死率から逆算すると、最大で10億人=当時の人口の3分の2が感染したことになる。しかし、いかに鉄道の時代が到来していたといえ、感染の広がりと速さに驚きを禁じえない。

 ロシアかぜパンデミックは、英語の呼称のとおりインフルエンザウイルスによるものだと考えられてきた。1957年のアジアかぜ流行の際、オランダで71歳以上の高齢者のなかに抗H2抗体をもつ人が高い比率で存在していたことから、1889〜1893年のロシアかぜはアジアかぜと同じA/H2亜型だと推測された[2]。その後、1968年の香港かぜの際には、高齢者に高い比率で抗H3抗体が検出され死亡率も低かったことから、A/H2亜型ではなくA/H3亜型だったという説が出てきた。アメリカ・アリゾナ大学の進化生物学者マイケル・ウォロビー博士らは、A/H3N8と推測している[3]

表 歴史上の感染症大流行
出典:J. Piret & G. Boivin, 2021
WHOは、SARSとMERSにかんしてパンデミック宣言を発していない。

 人類は2019年以降、新型コロナウイルスSARS-CoV-2によるCOVID-19パンデミックを経験した。発熱や咳、関節・筋肉痛、倦怠感といったCOVID-19の初期症状は、同じ呼吸器系ウイルス感染症であるインフルエンザとよく似ている。しかし、症例がふえるにつれてインフルエンザとは異なる、COVID-19独特の症状が明らかになった。その1つが、インフルエンザではふつう見られない嗅覚や味覚の異常(喪失)である。日本では、当時プロ野球阪神タイガースに在籍していた藤浪晋太郎投手が、2020年3月にSARS-CoV-2陽性と判明した際に、数日前から嗅覚と味覚の異常を訴えていたことから、広く知られるようになった。

 またインフルエンザでは、子どもと高齢者が重症化することが多いが、COVID-19流行初期には高齢者の重症化リスクが高かった一方で、子どもや若者は発症しないか発症しても軽症だと報告されていた。女性に比べて、男性のほうが感染しやすく重症化しやすいとも報告された(男女差には、男性ホルモンが関与しているという説がある[5],[6],[7])。

 ウイルスが消失したあとも、味覚や嗅覚が戻らなかったり、少しの運動でも息切れがしたり、倦怠感・不安や抑うつ症状がつづいたり、腎機能が低下したり、筋力が低下したりといった後遺症に苦しむCOVID-19感染者も多い。こうした「ロング・コビッド」とも呼ばれるCOVID-19後遺症は、重傷者だけでなく軽症者にも見られる。若い世代で、手足の末端(指)にしもやけのような症状が生じる「コビッド・トー」も報告された。時間がたつにつれ、COVID-19は急性肺炎に限らず、肺以外の臓器、血管や神経にもダメージをもたらす、「ウイルス感染をきっかけにして引き起こされる全身性疾患」であるとみなされるようになった。

 ロシアかぜも頭痛、発熱、悪寒、発汗、くしゃみ、せきなどインフルエンザに似た症状ではじまるものの、通常インフルエンザに見られる鼻やのどの炎症が見られない一方、嗅覚の消失や光に対して異常なまぶしさを感じるなどの症状が見られたと、当時のアメリカの医療機関や医師が報告している。また発疹や手の腫れもしばしば見られたという。末梢神経の炎症、神経性の痛みや麻痺などさまざまな神経系の症状も報告されている。重症化すると肺炎から呼吸困難を起こすが、それだけでなく全身の器官や組織が冒され、神経性の痛みも起こった。比較的軽い症状であっても、回復後に無力症、神経衰弱やうつ状態になったり、しびれや麻痺が残ったというケースもあった。こうしたことから、「神経性インフルエンザ」という呼称が提案されたほどである[8]

 また女性より男性のほうが発症しやすく、高齢者や心臓・腎臓・肺などに基礎疾患のある人は重症化しやすかった一方、子どもでは死亡はまれであったとされている。A型インフルエンザではインフルエンザ脳症と呼ばれる神経疾患を起こすことがあるが、その多くが子どもである。

 フランス・パリ大学名誉教授で医師・微生物学者のパトリック・ベルシュ博士は、こうしたロシアかぜの症状と、COVID-19で報告されてきた症状・臨床像が共通していることから、その原因がコロナウイルスであったという説に関心を寄せる[9]

 実はコロナウイルスの系統にかんする考察から、ロシアかぜパンデミックがコロナウイルスによるものだったのではないかとする論文が、2005年に出ていた。2005年にヒトかぜコロナウイルスOC43の全塩基配列を解明したベルギー・リューベン大学の研究グループは、OC43がウシに肺炎を引き起こすコロナウイルス(BCoV)ときわめて近く、OC43はBCoV由来であり両者が共通の祖先から別れたのは1890年ごろだとした[10]。このころ、BCoVが種を超えてヒトに感染するようになり、OC43の系統が生まれたと推測している。

 19世紀後半、ウシに致死率の高い伝染性の肺炎が流行し、1870年代から1890年代にかけて先進国ではウシの大量殺処分が実施された。これは細菌(マイコプラズマ)性の感染症と考えられてきたが、その確実な証拠はなく、殺処分や処理にかかわった人や農民が感染した可能性があるという。もし、BCoVが原因であったとすれば、ちょうど同時期に発生したロシアかぜパンデミックは、ウシからヒトにBCoVが感染してはじまり、パンデミックを引き起こし、やがて(弱毒化した変異株である)OC43として定着したのかもしれないと、研究グループは仮説を提示した。つまり、ロシアかぜはもともとウシ由来のコロナウイルスによる新興感染症=「コロナウイルス感染症1889(COVID-1889)」だったというのである。

 当時の感染予防対策が十分ではなかっただろうことを考慮に入れても、ロシアかぜの感染力の高さは驚異的だ。インフルエンザウイルスは飛沫感染はしても、ウイルスがより遠くまで運ばれる飛沫核(エアロゾル)感染はしないと考えられているが、ロシアかぜのウイルスはSARS-CoV-2と同じように飛沫核感染したのではないだろうか?

 ロシアかぜ=コロナウイルス感染症説にもちろん確実なエビデンスはないのだが、一方のインフルエンザ説も仮説の域を出ない。しかし、さまざまな事象の一致は、たんなる偶然ではすませられないように思える。もし、ロシアかぜが弱毒化する前のOC43だったとすると、ほかのかぜコロナウイルス、229E、NL63、HKU1も過去に動物からヒトにジャンプした際、パンデミックにまでは至らなかったにせよ一定の流行(エピデミック)を引き起こしていたと考えられる。

 ベルシュ博士も、(OC43だけでなく)ヒトかぜコロナウイルスはかつての流行の名残かもしれないという。だとすれば、私たちはパンデミックを引き起こすおそれのあるウイルスとして、もっと幅広いコロナウイルスに注目しなければならないのではないだろうか。

 ちなみOC43に感染した場合多くは軽症ですむが、一方で神経細胞に感染することがあり、神経細胞が冒される自己免疫疾患である多発性硬化症との関連も示唆されている。<つづく


[1] David M. Morens et al.:Pandemic Influenza’s 500th Anniversary, Clinical Infectious Diseases, 51(12), 2010

[2] W.R. Dowdle:Influenza A virus recycling revisited, Bulletin of the World Health Organization, 77(10), 1999

[3] Michael Worobey et al.:Genesis and pathogenesis of the 1918 pandemic H1N1 influenza A virus, PNAS, 111(22), 2014

[4] Jocelyne Piret and Guy Boivin:Pandemics Throughout History, frontiers in Microbiology, published 15 January, 2021

[5] Monica Montopoli et al.:“Androgen-deprivation Therapies for Prostate Cancer and Risk of Infection by SARS-CoV-2: A Population-based Study (N=4532)”, Annals of Oncology, published May 06, 2020

[6] Carlos Gustavo Wambier et al.:“Androgenetic Alopecia Present in the Majority of Hospitalized COVID-19 Patients – the “Gabrin sign””, Journal of the American Academy of Dermatology, published May 22, 2020

[7] Carlos Gustavo Wambier and Andy Goren:“Severe acute Respiratory Syndrome Coronavirus 2 (SARS-CoV-2) Infection Is Likely to Be Androgen Mediated”, Journal of the American Academy of Dermatology , 83(1), July 1, 2020

[8] Mark Honigsbaum:“An inexpressible dread”: psychoses of influenza at fin-de-siècle, The Lancet, 381(9871), 2013

[9] Patrick Berche:The enigma of the 1889 Russian flu pandemic: A coronavirus?, La Presse Médicale, 51(3), September, 2022

[10] Leen Vijgen et al.:Complete Genomic Sequence of Human Coronavirus OC43: Molecular Clock Analysis Suggests a Relatively Recent Zoonotic Coronavirus Transmission Event, Journal of Virology, 79(3), 2005

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