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フジテレビ・ヤングシナリオ大賞受賞の頃のこと(前編)

 6月18日に発売された「月刊ドラマ」7月号に、僕が92年に第五回フジテレビ・ヤングシナリオ大賞を受賞した『屋根の上の花火』が掲載されています。(坂元裕二氏、金子ありさ氏、古沢良太氏のコンクール受賞作も同時掲載)

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 今回は脚本家を目指した頃のことやコンクールのことなどを思い出しながら書いてみます。

映画監督志望の中学~大学時代

 僕は中学の頃から映画オタクになり、映画監督になりたいと思うようになりました。高校のときには新井一さんの「シナリオの基礎技術」を読み、さらに「男はつらいよ」(山田洋次)や「男たちの旅路」(山田太一)の脚本集なども読んでいたので、脚本を書くこともかなり早い時期から視野に入っていました。映画監督には自分で脚本を書く人と、書かない人がいますが、僕は前者になりたかったのです。黒澤明監督の「いい監督になるには脚本も書けないとダメだ」というような発言を本で読んだのがきっかけでした。

 当時(70~80年代)は映画監督になるのが非常に難しい時期でした。今でも商業映画の監督として生活ができるようになるのは簡単なことではありませんが、スマホでも映画が撮れるようになり、自分で映画を撮ってネットで発表するだけならいとも簡単なことです。お金もかかりません。そこで作品が評判になって仕事の依頼が来て……と夢を描くこともできます。
 昔は映画会社に入社して助監督になり、そこで修行して監督に昇進するというのが監督になるコースでした。入社試験はすごい倍率だったでしょうが、一応コースは用意されていたのです。しかし映画業界が斜陽になるにつれてどの映画会社も助監督の募集をほとんどしなくなり、狭き門がさらに狭くなってしまったのです。

自主映画で監督デビューを夢見るも・・・

 そんな頃、自主映画から監督になるという新しいパターンが生まれました。8ミリフィルムや16ミリフィルムで映画を撮り、その作品が評価されることで監督になる人が出てきたのです。大森一樹さん、森田芳光さんなどがそのコースから監督になった人です。
 今も続いている「ぴあフィルムフェスティバル」が始まり、そこで賞を取ることが監督への登竜門のようになりました。当然のごとく僕もそのコースを目指そうと、大学では8ミリで映画を撮りました。
 しかし大学の間にはそれで成果が出ることがなく、一度企業に就職するしかありませんでした。就職したのは大阪の広告会社です。監督になる夢を諦めたわけではなかったのですが、どうやってなるかという道筋は全く見えない状態になってしまいました。会社の仕事は忙しく、学生時代のように気軽に仲間と自主映画を撮るような環境ではなくなってしまったのです。自分はこのままサラリーマンをやって行くのだろうか?と悶々としながら日々を過ごしていました。

トレンディドラマの誕生

 そんな頃(80年代後半)、テレビドラマで「トレンディドラマ」と呼ばれるドラマが流行し、高視聴率を取るようになりました。これらのドラマはほとんどが若者にターゲットを絞ったオシャレなラブストーリーです。
 サラリーマンの給料で家賃を払えるわけがないような高級マンションに主人公が住んでいたりして、そこに突っ込む人もいましたが、視聴者はそれをわかった上で楽しんだのです。
 これらのドラマの旗手となったのがフジテレビでした。
 僕もこれらのドラマを楽しみました。自分自身がターゲットの年齢だったこともありますし、実家を出て東京で一人暮らしをしたいという憧れもありました。
 ほぼ時期を同じくしてフジテレビ・ヤングシナリオ大賞が始まりました。フジテレビのドラマを書く若手脚本家を発掘しようという意図だったのでしょう。実際にこの賞をとった坂元裕二さんや野島伸司さんらがフジテレビでドラマの脚本を書き、ヒットを飛ばすようになったのです。
 僕はこの頃に「これから目指すとしたらテレビドラマの脚本家だ」と明確にターゲットを変更しました。監督を目指す道筋が見えないのに対して、脚本家はヤングシナリオ大賞という具体的な目標が門戸を開いていたのです(他にも脚本コンクールはいくつもありました)。
 それに映画を撮るには(自主映画であっても)お金がかかりますが、脚本は紙と鉛筆さえあれば書けます。もうこれしかないだろうという感じでした。
 そして僕は28歳のときに会社を辞め、東京に出て来て本格的に脚本の勉強を始めました。88年のことでした。世間はまさにバブルに突入しようとしていたときでした。

脚本家を目指して東京へ

 借りたワンルームマンションは東横線都立大学駅から歩いて10分ほどのところでした。トレンディドラマでよく撮影に使われていた駒沢公園に近いところです。少しでも目標に近いところで暮らしたいという思いでした。
 よく駒沢公園を散歩しましたが、そのとき感じたのは、憧れの場に近いところにいるという楽しさと、まだ自分はそこに受け入れられていないという焦燥感の両方でした。「いつかここを大手を振って歩けるようになりたい」と思いながら日々を過ごしました。(実際は誰が歩こうが自由なので、そう思うのは僕の勝手な心理に過ぎないのですが)

 教室で脚本を学びなから、書いた作品をヤンシナに限らずいくつものコンクールに応募していたのですが、成果はなかなか出ませんでした。
 自分が落選したコンクールで入選した作品を読んでも、さほどいいとは思えませんでした。自分の方が上とまでは思いませんでしたが、「これで入選なら自分の作品ももう少し評価されてもいいのでは……」という気がしたのです。どんなものを書けば評価されるんだろうというのがよくわからず、どうせそのときどきの運みたいなもので決まるんじゃないか?とすさんだ気持ちになることもありました。
 そんな中でも映画を分析してカードを作ることでテクニックを身につけるなどの勉強、そして作品を書き続けるということは続けていました。
 そんな中で出来上がったのが受賞作の『屋根の上の花火』です。

 応募から受賞までのことは後編に書きます

※上の写真は新宿河田町にあった昔のフジテレビ(ウィキペディアより)

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