人生の設計図

何でも好きなことを書いてもいいとなると、いくらでも書けるし、書きたくなる。エッセイとなると、ちゃんと組み立てないと、みたいな気負いがあるから、なかなか書き出せなかったりするし、Twitterだと、たいしたことがないことを呟くのが苦手だったり、Facebookだと特定の人に読んでもらうという緊張感もあったり。その点noteって日記みたいな感覚で雑文を書ける。もっと早くはじめてもよかった。自分に合ってるような気がする。

ところで最近よく、子供の頃や家族のことを考えることも多い。

私の母がものすごい変わり者であったことは、エッセイなどでもちょいちょい書いているが、その変わり者の母の采配により、私は自分の家の、隣のおうちで生まれ育った。産院から戻ったその日から、とも聞いたことがある。隣のおうちが親戚だとか、全然ない。ただの、隣の家だ。隣に住んでいた一家が、とんでもなく親切だった、という僥倖。

私の母は二十歳でお見合い結婚し、山口の田舎から大阪の堺に嫁いできた。すぐに長女が生まれて、2歳違いで次女、三女、と生まれて、育児パニックだったのだろう。そんな若い母をお隣のおばさんはサポートしてくれるようになり、親交が深まっていき、そのうち隣のおばさんが家政婦の仕事をしようかというので、だったらうちをお願い! という流れになって、さらに仲良くなり家族ぐるみで行き来するようになっていたところ、私が産まれたと。4番目の子供なんて、母にしたら孫気分というか、産んでみてかわいいはかわいいんだけど、勝手に育ってほしいくらいだったんじゃないだろうか。お隣さんが可愛がってくれるし、そっちで育つほうがこの子にとっても幸せかもね、と思ったのかどうか。とにかくけっこうカジュアルに、私はお隣さんに里子に出された模様。

実際、6歳くらいまで自分のことをお隣さんの苗字だと思っており、お隣さんの2番目のお姉さん(当時22歳くらい。お隣さんは三人兄妹)のことを「ママ」と呼んでおり、小学校に上がる時に、自分の持ち物に「おざきえいこ」と書きなさいと言われて衝撃。

「えっ!! 私って尾崎なん!? うそやろー!!」

アイデンティティ崩壊っていうのか、号泣したのを覚えている。そんなわけで、高校で寮に入るまで、私はお隣のおうちで暮らしていた。

私が実家で暮らしたのは、人生でたった1年だけ。高校卒業して浪人しようと決めて、堺に戻ってきた。

最初は、京都で下宿していた次女のところに居候しようとも考えていたのだが、

「あんた、一度は自分の家で暮らしなさい」

と長女に言われたのだった。

というのもその頃、私の母が経営していたエステティックサロンを潰して、億単位の借金を作り、このままでは父の会社まで共倒れしてしまうからと離婚して、そのどさくさまぎれに蒸発してしまっていたのだ。本当のところ、母の居場所を娘の私たちは知っていたのだが、父をはじめ、周囲の人には内緒にしていたので、母は借金から逃げて行方不明ということになっていた。こうして書くと、本当にファンキーな母親だな。エステティックサロンが倒産したのも、そもそも母が何箇所もの新興宗教にハマって多額のお布施をしたりしていたからである。なぜ何箇所もだったかというと、母は「この世の真理を知りたい」というわけがわかるようでわからない理由のために、いくつも新興宗教に出入りしており、そうすれば、そのうちどこかの教祖がこの世の真理なることを教えてくれるかもしれない、と考えたとか。実際、この世の真理がわかったんでしょうか、お母さん……。この世を去ってシリウス星にでも行っているであろう母に、もう聞くことはできないのだが。

そんなわけで、億単位の借金を残された父はカオス状態。次女も三女も一人暮らししていたものだから、実家で父と同居していた長女が、そのカオスに一番付き合わされていたのだ。浪人となった私に、あんたも実家に住みなさい、と言うのは至極当たり前だろう。

さらに不運なことに、時を同じくして、父方の祖父が危篤状態になって入院。渡鬼みたいな親戚たちに、

「ほんまやったら、長男の嫁がお父さんの世話をするべきやのに、アホみたいな借金残しておらんようになって」

みたいなことをネチネチと言われたものだから、怒り心頭の姉たちが、

「だったら代わりに私たちがやります!」

ってこと言ったんだったか、とにかく交代で祖父の病院に通うことになって、さらにカオス。でもその時、私だけが介護役を免除してもらったのだ。まだ18歳だし、浪人生だから勉強しなさい、と。

こんなに姉が頑張ってくれている時に、父はというと毎夜ウジウジと泣いていて(まあね、泣きたくもなるのもわかりますよ、億単位の借金を背負わされるは、奥さんはいなくなるは……)私に言うのだった。

「英子、頼むから関西の大学に行ってくれ。長女が結婚したら、お父さん独りぼっちになる。それは嫌やから、ここでお父さんと一緒に暮らしてくれ」

と。申し訳ないけど、それだけは嫌! と強く思った私だった。

父を孤独にするのは可哀想だと思う。心配でもあった。でも、自分の人生を父のために犠牲にしたくない。酷い娘かもしれない。でも、父にそう言われることで、はっきりと自分の人生の方向性が見えたような気もする。

当時、東京の大学を出てマスコミの仕事をしたいなとぼんやり思っていたのだが、父を置いて出ていこうというのなら、ぼんやりではいけないのだと。

(つづく)


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