わたしは拗らせたマザコンで、それなりにファザコン#3
誰が悪いものでもないのかもしれない。
嫁いだ頃には従順が19歳の母も、年とともに本来の自分を発揮するようになり、それはあの家に収まるものではなかったともいえる。バブルによって舞い込んできた大金が、元来の母を発動させてしまったのかもしれない。
(#1、2はこちらから↓)
何千万もする壺を買ったことがばれて、母は祖父にボコボコに殴られていた。
毎週のように、多い時には週に二度、三度。
殴りたくなるようなことをしでかしたとはいえ、暴力をふるっていいわけがない。が、これもまた時代なのか。
そう考えると、現代には現代なりの問題も多発しているが、良いように改善されていることもたくさんある。
昭和が呑気でよかったという面もあるけれど、家庭内での窮屈な封建主義の中で泣かされてきた弱者が見放されがちだった。粗暴な時代でもあったと思う。
もちろん今なお旧い価値観に苦しんでいる人もいるだろうし、新しい暴力に脅かされている人もいるだろう。簡単な話でもない。
その頃わたしは中学生だった。
応接間で家庭教師と勉強していると、隣の部屋で、殴る蹴るの音や母が泣きながら謝まる声が説明するカテキョの声をかき消すほどに聞こえてくるって、もうコントみたいな状況。
育ちのよさそうな大学院生のカテキョは、必死で聞こえていないふりをしてくれていた。
隣の部屋のことも気になるし、なんて家だと先生に思われているだろうという羞恥心も湧き上がるし、こちらも勉強に集中できなかった。
あれ、音が止まった? と思ったら、髪を振り乱した母が、お茶とお菓子を持ってきたりしてさらに気まずくなる。
いやいや、こっちのお茶なんていいから! とりあえず逃げとき!
(左から、私、父、長女、三女。88年とあるのでわたしは10歳。年がら年中「愛してんでー」と肩を組んでくる父だった。)
結果からいうと、母は億というお金を神様に注ぎ込んだ。バブルもはじけた。
借金取りが押しかけてきたので、父の会社を守るために両親は離婚した。
父にしてみれば、一時的な対応だと考えたようだが、母はこのタイミングしかないと思って逃げた。
父には蒸発したことにしてくれと言って、すべての借金を押し付けて、行方をくらませたのだった。
その頃、わたしは高校3年になっていた。受験生なのに、受験どころじゃない騒ぎ。
当時は横浜の下宿で一人暮らししていたので、夜逃げ騒動に巻き込まれずに済んだが、姉たちの話を聞くと夜中に怖い方たちがドアを叩いてきたり、大変だったようだ。
母も母だ。
やはり人として決定的な何かが欠落していると思うが、その時は母よりも、父を責める気持ちが強かった。
めちゃくちゃなことをしたのは母だが、追い詰めたのは誰なのかと言いたかった。
祖父が母に手をあげている時、父はつねにそばで見ていただけだったのでないか。
たまに「おやっさん、それくらいにしといてや」とは言っているのが聞こえてきたが、身を挺して殴られている母を庇うことがなかったのではないか。
父も強烈なファザコンだった。絶対的な父親に逆らうことができなかったのだろう。
「こんな嫁をつれてきたんは、おやっさんやろ! おやっさんが言うとおりに結婚しただけや!」
と言ったればよかったのに。
そういうことがあったので、しばらくわたしは父を少し軽蔑していた。
一人きりが苦手な父は、高校の同窓会で再会した元クラスメイトの女性と再婚して、10年ほど一緒にいたが、けっきょくまた逃げられている。こちらも、いろいろ欠陥の多い人なのだ。
さらにあれだけのことをされたのに、母に戻ってきてほしいと頼んで、再婚したのだから懲りないというのか、究極のマゾだろうかと思わないでもない。
娘からしたら、もうお好きにどうぞ、って感じだったが、再婚してくれたことで、母を看取ることができた。
母の最期が、さみしいものにならずに済んだことに、今となれば感謝している。
母が亡くなる一ヶ月前に、京都の姉宅に近いサービス付き高齢者向けマンション、通称、サ高住に父と母は移り住んだ。
母が料理を作れる状況でなくなったので、そういう場所で父が困らずに暮らせるように姉が手配してくれた。
ほどなくして母は亡くなったが、いまも父は基本的にそこで暮らしていて、年末年始などみんなが集まる時に、堺にある実家に戻るという生活だ。
つねにスタッフがいてくれて料理も出してくれて、月々の家賃はけっして安くないが、その価値は十分ある。
心筋梗塞が見つかったのも、酸素量や血圧をこまめに測ってくれているからだ。
これまで救急搬送されては命拾いしている父だが、たんに悪運が強いだけではなく、早期に対応してくれているからこそ。
さて、父である。
現在、心筋梗塞で入院している父である。
いつのまにか時間がすぎた。
先ほど、母とのことなどで父を軽蔑していたこともあったと書いたが、こうして振り返ると、何だかすべてが遠い。
いろんなことがあって、ただ、今がある。
そして今となれば、父には少しでも元気でいてほしいと思うのだ。
わたしは、母との関係にずっと悩み続けてきた。
破滅的で、理解のできない金銭感覚の母に苦しめられ、何度も親子の縁を切りたいと思ったし、連絡を取らないようにしていたことも一度や二度じゃない。
涙ながらの絶縁状みたいな手紙を書いたこともある。
自分自身の苦悩の8割を占めるのが母なのに、どうしても嫌いになれないから苦しかった。
どんなことがあっても、わたしを否定することはなく、応援してくれたから。
一般常識とは違う視点でアドバイスしてくれるので、刺激されるし、励まされるから。
DVの恋愛に近かったのかもしれない。
自分が、かなり拗らせたマザコンだったのだと、母が亡くなった後に気づかされた。
自分のアイデンティティを発見したのだった。
それに比べて、父との関係のまっすぐなことよ。
酔っ払うたびに、「愛してんで」と言っていた父だ。
いやだというのに立たされて、手を取られ、
「チークダンスやー」
と踊らされたこともたびたび。
ベロベロに酔っ払った父親とチークダンスなんて、思春期の娘には、
「ウザッ!!!」
にほかならなかった。
だけど四十をすぎたわたしがこうして書き綴っていると、「愛してんで」もチークダンスも、かけがえのない宝物じゃないか。
こんなにまっすぐに愛してもらってきたから、わたしもまっすぐにしか返せない。
父との別れが訪れたら、まっすぐに悲しいだろう。
まっすぐに、寂しいだろう。
お父さん、ありがとう。
って……。
ええ、まだ元気なんですよ、父は。
そう、間に合うのだ、今からでも。
たくさん、ありがとうを伝えていこうと思う。
親の老後と向き合うことはつらい。
腰の重い作業だ。
だけど、「その日」が避けられることはない。向き合える時間は限られている。
毒親というのはいる。
親が老いていこうが、死にかけていようが、会いたくもない、許せない、という人たちもいるだろう。わたしの周辺の話だけでも、けっして少なくない。
わたしの両親は変人だったが、毒ではなかったと思うものの、おおいに悩まされたくちなので、その気持ちもとても理解できる。
その人たちは、きっと会わなくもいい。
許さなくてもいい。
けっきょくは、親と向き合うことも、親から逃げることも、自分のためだと思う。
自分をもっとも大事にできるのは、ほかならない、自分だ。
誰かのために生きる、他人を想ってゆずる、それも尊いことだ。
自分のことしか考えていないというのも、どうかと思う。
でも、自分を大切にしないで生きてはいけないとも思う。少し話がずれたが、脈々とつなげてもらった命で、親もご先祖さまも大事だけど、何よりそれなんじゃないだろうか。
わたしも自分のために、こんな駄文を綴っているだけだ。
(人生いろいろ番外編へ続く…かな?)
(鮪を解体している父。)
(エッセイを毎月更新しています。こちらもぜひ)
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