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利他は思いがけずやってくる。

寄付やボランティアは偽善だということを言われたことがあり、一時期深く考えていたことに通じる本だった。

その「偽善」という言葉に対して私の中で出た答えは当時も今も変わらず、頭で考えるよりも先に「私に何かできるなら」と行動を起こし、それを受け取った人にとって何かプラスになるのであれば、それでいいじゃないかということ。
それが「何かできた私」という自己満であっても、感謝や見返りを強要しなければ良しだと思っている。
大事なのは"受け取る側にプラスになっている"という点。
「相手にとってプラスか」は割と何に対してもそうで、例えば「気遣い」で考えても相手に気を遣わせるような過剰な気遣いは相手にとってマイナスだし、「ありがた迷惑」は一方通行の利他をよく表現した言葉だなと思う。

受け手にプラスだったとしても、世間の空気や目、無意識な自己保身、謎の使命感、習慣などによって「やらされている」が強い場合はモヤモヤするんだろうなと思う。

利己のために行った利他が、自分の手を離れて受けて側に渡った時、その人の受け取り方でそれこそ思いがけず「利他」になることもあって、それなら利己的な理由がスタートでもいいと思う。

実際に困ってる人がいる場合、利己だ利他だを考える前に、動いた時点でそれは行動しないよりも圧倒的に誰かのためになる利他な選択だと思うなぁ。

とか考えていた。

「思いやり」という言葉も利他と同じ。
というか、利他をやわらかく言い換えた言葉。
私は大学生の卒業制作で「思いやり」について取り組んでいたので、割と利他についてはよく考えていた方かもしれない。
この本は、利他な行動をする動機や、利他が受け手に渡るまでのことが中心だけど、私が考えていたのは、利他的な思考に至るまでの"気づき"の段階なので、イメージとしてはこの本で書かれているもっと手前のこと。

思いやりのない心ない発言や行動に対して、「なぜそこまで言えるのか」「自分が言われたらどうなのか」「自分は絶対にその過ちや同等の過ちを繰り返さない完璧な人間なのか」とか、他者に対する過剰な批判(本で言うP142あたりの自己責任論の部分)にすごく疑問を感じていて、なぜそうなるの?どうしたらそうならないの?ということをずっと考えていた。

そのうちに私が辿りついたのは、「批判する人は批判される人ではないし、批判される人は批判する人ではない」ということ。
つまり、「あなたは私ではないし、私もあなたではない」ということ。当たり前のことだけど、同じ年月を生きてきた人でも、周囲の環境や人間関係、経験してきたことは全く違って、そこから感じたことや気づいたことも全く違う。
だから同じ人間は1人としていなくて、過去から形成される価値観や視点、思考は必ず人それぞれ少しずつ異なるということ。

だから、他者のことを過剰に批判する人は「自分がこの人と同じ経験をしていたらもしかしたらこうなっていたかもしれない、こう考えるかもしれない」という思考に思い至らないし、私も過剰に批判する人の思考が理解できない。
それは、その人に見えているものや心の内が想像できないから。想像できないのは、知らないから。
経験していないのに相手の気持ちになれる人は「人と自分は違う」ということを本当の意味で知っている人。

そう考えた私は、思いやりのスタートは「自分が知らない、思いも至らない考えがある」ということを自覚することだと定義して、22歳だった当時の同い年15名ぐらいにスーパーロングなインタビューをして、人生をグラフにしてもらったり文章化するなどして可視化、展示した。
あえて比較できるように複数人に協力をしてもらったのは、同じ22年間でこんな経験をしている人もいるのか、こんなに違うのか、という視点で見てもらうため。
ソクラテスの「無知の知」(自分は無知であるということを自覚する)を体験できるような場を作りたかった。

そこまでの思惑が伝わったかどうかはわからないけど、展示を見ていただいた方の声を聞く限りでは、少なくとも伝わる人には伝わったのではないかなという実感はある。

この制作を通して利他について色々と考えていた時期があったので、割とこの本の内容はすごくすんなりと入ってきて、さらにもっと多角的な視点から言語化・整頓されたものだなと感じた。

この本で私に響いたのは、P176「有限なる人間には、どうすることもできない次元が存在する」〜P177「いま私は、利他をそういうものとして認識しています」という部分。ほぼ終わりがけの後書きなのだけど、ここがもうものすごくしっくりきた。
価値観としては私の中に元々あったものなのだけど、他者によって言語化されたことでピタッと繋がって、腑に落ちたというかそんな感じ。

私は自分の力によって生きているのではなく、生かされていて、私の命は与えられているものだという風に教えられて生きてきたし、私も今までの人生の中で自然とそう感じている部分がある。
ある日突然「直感」がやってきて、それに素直に従うことでなぜかうまく物事が運ぶという実感があって、それが神の存在なのか何かの気なのか、はたまた偶然なのか。
私は、それを論理的には証明できない、人智を超えた働きによって与えられている「利他」なのだと思う。
それがベースにあるので、自分の直感に素直に従って生きている。
私がある日突然布団の中でノマドワーカーになろうと思い立ったのも、結果首席で卒業した大学に入ろうと思ったのも、結果的に自分の人生をものすごくハッピーにする大きな要因になっている。2大ハッピー体験と言っても過言ではないかも。これは、私の中では突然降ってきた直感を行動に移した結果だったりする。

「全て自分の力で、選択で、自分で自分を生きている。自分に見えている世界が全てだ」と考えることはおそらくこの本で言う「能力の過信」なのかなと受け取った。
そうすると「偶然が宿る器」にはなれない。自己を超えた力に謙虚でいることで受け入れられる状態になって、思いがけず利他がやってくる。
そういうことなのかなという解釈をしている。

この理屈?プロセス?自体が数式などでは説明できないような、ふんわりと漂った感じだけど、結局世の中で起こる事象を全てをパキッと数式のように明確にすることはできないと思っている。
し、そもそも私は地球や宇宙の誕生日から滅亡までのような人の手では成し得ない事象などを語るにも人間はちっぽけすぎて、そんなこと言ったら科学では証明できないことはいくらでもあると思っているので、神や運やその類の「"存在しないこと"を証明できないもの」に対して、私は否定をしない。

「存在を証明できないから信じない」タイプではないので、そういう説明できない仕組みや神や仏などの存在を受け入れ難いという人がこの本を読んでどう感じるのか興味ある。

そしてそして、
私が幼い頃から母に常々聞かされている志村ふくみさんや土井善晴さん(そういう母に育てられたので私も同じ趣向)、そして私が心の底から共感する「用の美」という考え方の民芸、そして柳宗悦が高く評価したとされる松本民芸が受け継がれてきた喫茶店に昨日行ってきて、このタイミングでこのワードの数々が出てきて繋がったのは本当にドキッとした。
それを民芸のまち松本のとあるカフェで読んでいたのだから、これはきっと何かの運命。笑

久しぶりに色々考えさせられる面白い本だった…!
読んだ本や見た映画は忘れがちなので、備忘録として。

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