彼岸と此岸、深淵の境界について

はじめに

 これから語る妄想ができるに至ったのは、私が死が好きだからである。間違えた、死生観に関する考察が好きだからである。
 この妄想は、主に刀剣の付喪神たる燭台切光忠と、後少し彼と親しい鶴丸国永で構成されている。
 断っておきたいのは、私が燭台切光忠を好きになったのは、本当に一目惚れだったのだ。決して刀剣としての彼の来歴がどう、などの情報は知らずして好きになったのだ。本当だ。


彼岸と此岸 

 まず、この妄想において≪彼岸≫と≪此岸≫が何を意味するか記載しておく。原語的に捉えるならば、彼岸とは涅槃・悟りの世界を意味し、此岸はその反対だ。
 ただ仏教的なことを話す気はないので、俗語的なあの世とこの世という意味であることを明言しておく。そうでないと、この後の前提が狂うためである。

 人間の彼岸と此岸を定義するのは簡単だ。死んだら彼岸へ行くのだ。では刀剣はどうだろうか。
 人で言う死は、刀剣乱舞では破壊と表現される。刀剣は破壊された時に遺言(通称破壊セリフ)を呟くため、それらを分析すれば刀剣たちがどのように死を捉えているかがわかると考えた。
 以下特筆する遺言を独断でピックアップする

①死体の行方
鳴狐
キツネ:鳴狐! 目を開けなさい、息をしなさい、立ち上がりなさい……!あぁ、駄目なのかぁ…… 
鳴狐極
キツネ。今まで、ありがとう。あるじに、鳴狐はがんばったって、伝えて
太鼓鐘貞宗極
主に……死に顔を見せる気はねえよ……かっこ……つかねえだろう……
燭台切光忠極
死に顔なんて、見ても無様なだけ……主には、見せないでほしいな……
鶴丸国永
参ったな……これじゃあ衣装が赤一色で……鶴には見えねえじゃねえか……
②魂のいき先
歌仙兼定
ああ……これが彼岸か。詠まねば……筆を……誰か、僕の筆を……
宗三左文字
二度焼けて、その度に再刃されて……でも次は無い。ああ……ようやく自由だ
へし切長谷部極
(中略)だから……先に逝きます……いずれ、地獄でお会いしましょう……!
南海太郎朝尊
折れた刀の魂は、どこへ逝くのだろうね……これはこれで、興味……深い……
日向正宗
もうちょっとやれると思ったんだけど……惜しかったな……次は……そうか……次はないのか……
村雲江
ようやく、正義も悪もない場所へ……行けるんだ
③焼け身の捉え方
一期一振極
一度焼けて、それからは、どこか現実感のない生を送ってきた……それも、これで終わり……(後略)
包丁藤四郎
火事で焼けるよりは……ずっと、かっこいい死に方だけどね……


 ①について、私自身根拠はないものの、ずっと刀剣が破壊されたら折れた刀剣に戻る、と考えてきた。
 ピックアップしていないが、自身が死ぬことを「折れる」と表現する刀剣もいる。刀剣破壊のエフェクトが、立絵がシルエットになり粉々に砕け散る、というものであるのもそう考えた要因の一つだろう。
 だが、発言を見てみると「人の形になった付喪神の死体(以下死体と呼称)が残ること」を前提とした遺言が散見される。鳴狐に至ってはお供のキツネだけが取り残されており、鳴狐自身もキツネは生き残ることを前提とした発言を残している。
 もちろん遺言の後死体が消え、刀剣だけが残るという可能性もあるが、刀剣自身の意識としては死体が残ると考えているのは興味深い。
 余談だが、極ではない太鼓鐘と燭台切のセリフはお揃いだったり対になっていたりするが、極になると遺言がお揃いになる(極ではないときも似たようなことは言っている)。かわいいね。

 私が彼岸と此岸について述べようと思ったのは遺言の詳細を調べる前であったが、歌仙がばっちり彼岸に言及してくれている。ありがとう。刀剣は死んだら彼岸に行く。証明された。ありがとう。
 もうこれでこの妄想は終わってもいいのだが、まだ深淵について触れてないので続行する。ただ朝尊が言及したように、魂がどこにいくかは決まっておらず、遺言には本人の希望が反映されている可能性が高い。死は救いであるからしょうがない。

 ②について気になる点は、「死んだら次はない」と話す刀剣が複数いることだ。山伏国広が山姥切国広との回想内で「戦いが終われば美術品に戻る」という旨を語っていたが、死んだら元に戻れないのか。
 現実の日向正宗はきちんと残っているし、宗三左文字も二度焼けて再刃されているとはいえ折れたわけではない。

 刀剣乱舞のゲームシステムとして、一度破壊された刀剣は御守りを持たせていない限り復活しない。同じ刀剣を育成することはできるが、完全に同じものが復元されるわけではない。「次はない」とは「同一の刀剣男士として」次はないということだろうか。
 日向の遺言はそれで意味が通るが、宗三含め②で挙げた遺言では通らない。終戦まで生き残れば元の美術品としての刀剣に戻れるが、死んだら彼岸にいき元には戻れない、ということか。
 燭台切は元の、メタ的に言えば元ネタの刀を「物理的な器」と呼んでいる。終戦になれば付喪神は器に戻る、その前に死ぬと戻れなくなるとするなら全てのセリフの解釈として一致する。ちなみにこれは伏線である。

 ③を取り上げた理由は、刀剣的に火事で焼けても死亡扱いになるということの再確認のためだ。宗三の遺言と合わせて考えると、焼けっぱなしは死んでいる、焼けてから再刃されることは蘇生のようなもの、ということだろうか。これも伏線である。この妄想は主に燭台切光忠について言及するものである。


刀剣男士の「終わり」

 さて、刀剣にあの世があるかはさておき、死という概念がある以上、それに似たものはあるということがわかった。そのため、刀剣の彼岸とは、その「あの世のような何か」であると改めて定義する。
 ただ人間と違うのは、刀剣の彼岸はある意味可逆的で、再刃や修復により此岸に戻る可能性があることだ。
 彼岸への川を渡っても人間の都合で連れ戻されるが、その際に記憶を失う刀剣もいる。ただし、現実の、「物理的な器」が焼け落ちていても、また器を持たずとも付喪神として顕現している刀剣は何口か存在する。

 刀剣乱舞の世界では、審神者は眠っている物の想い、心を目覚めさせ、自ら戦う力を与え振るわせる技を持つ者とされる。つまり審神者は物に心があれば、生きていようと死んでいようと目覚めさせることができるというのか。え、すごくね?
 それとも、審神者は時を渡ってその刀が生きていた時代で目覚めさせたのか。ただそれだと「刀剣自身が自分が死んだことを知っている」事実と矛盾する。

 死んだ後も残り続けるならば、たとえまた死んでも「これで終われる」とならないはずだ。また、何人も審神者が存在し、同じ刀剣男士が存在するならば、一度心が芽生えた付喪神に実質的な終わりはないはずだ。

 用語集を見ると、刀剣男士とは「刀剣が人の形となった付喪神」と書かれている。とするなら、刀剣の付喪神が刀剣男士になり死んだとしたら、疑似的に人間のような死が与えられるということか。
 「これで終われる」「地獄に行く」とは刀剣男士として目覚めた一個体の付喪神が彼岸にいくことだろうか。それならば、各本丸に顕現された刀剣男士は個体差がある、という見解も含めて一応納得できる説になったのではないだろうか。


深淵の境界

 やっと本題に入れる。さて不可逆的な死が待ってる刀剣男士には彼岸があると語ってきたが、可逆的な死を迎えるかもしれない刀剣はどうだろうか。無論存在すると考えられる。
 一応広辞苑を調べても「彼岸に行ったら戻れない」という記述はないし、俗に臨死体験というのもある。なので彼岸と此岸の中間を、ここでは深淵と定義する。
 なぜ深淵なのかというと、死の暗喩ではないが闇に近似していること、行っても自力では難しいが他力で戻ってこれそうであること、そして私が好きだからである。

 ようやく燭台切光忠の話ができる。燭台切光忠が今どの位置にいるかというと、私の解釈では、深淵の境界にいると言える。
 彼は焼刀である。そして再刃されず現在に至っている。再現刀としての写しはいるが、これについて本歌の代わりとすると山姥切の国広が悲しくなってしまうのでやめようね。
 これだけ聞くと彼岸におるやんけ、となるが彼は焼刀にして日本刀である。普通焼刀は日本刀だと認められないが、特別に登録されたのである。言い換えると普通日本刀と認められる刀は此岸側にいるが、燭台切は彼岸側にいるにも関わらず、人間によって此岸側に戻されたのである。

二度と戻らない此岸

 以前弊記事「ありがたい泥聖杯」において、燭台切の日本刀登録は残酷で人類が愚かと言う話をした。(何度でも言うが、批判しているわけではない)
 燭台切は現実の自分(=朽ちた器)には何の期待もしていないと考えられる。焼け朽ちた刀では何も斬れず、再現刀がいくら美しくても焼けた自分は何も変わらない。
 刀剣乱舞理論でいうと、尚更写しは本歌と別物であるため、写しを通して過去の燭台切の美しさを想像しても、その想像の中の刀は燭台切そのものではないのだ。

 刀剣男士として人の体が得られて1番嬉しかったのは燭台切じゃないかと思っている。自分の体で、自分の意思で格好良く在ることができるからだ。
 逆に言うと、燭台切の選択肢の中に「終戦まで生き残ること」は入ってないと思われる。帰る先がないからだ。
 焼けて死んだ自分が、刀剣男士として生き返った。燭台切の願いは「格好良く(=存在感を保ち)人々の心に残り続けること」である。要は「僕を忘れないで」ということだ。かわいいね。

 「主に死に顔を見せないで」は「君(主)には格好悪いところを見せたくない」燭台切の最期の意地なのだろう。
 極める前も後も死ぬことそのものに関して一切の頓着がない。現実に期待してないからこそ、誰かの心に残って生き続けるという選択をした。無論大抵の刀は生き残ることを前提に生活している。前向きに後ろ向きだ。

 人々の手によって戻された此岸に背を向けて、自分の力で「格好良さ」を人々の心に残していくのだ。

彼岸と此岸、深淵の境界で見つめ合えど

 そして最後に鶴丸国永の話をしたい。彼は焼けても折れてもない刀剣であるが、一度かつての主とともに墓に入れられたという話がある。その後ちゃんと掘り起こされたが、言い換えると此岸側にいるが、ちょっとだけ彼岸側、もとい深淵に足を踏み入れたことがあるといえる。
 今まで公式の紹介文の中では、大倶利伽羅の項目に「伊達家伝来のため、太鼓鐘貞宗、燭台切光忠、鶴丸国永と旧知の仲」と書かれてきた。
 燭台切と鶴丸は伊達家に伝来しているが、同じ期間に居たことはない。
 大倶利伽羅は長く伊達家に居るため、これは(敢えて大倶利伽羅の紹介に書かれているのが面白いが)問題ない記述だ。
 だが、先日刀剣乱舞無双の発売が発表されたが、公式サイトの燭台切の欄に気になる記述があった。

本作において同じ第四部隊である、鶴丸国永と大倶利伽羅とは旧知の仲。
https://touken-musou.com/character/mitutada

マ????
君たちどこで出会った??????

 無双本丸独自の設定かは知らないが、とにかく驚いた。ただそれ以前に、普通本丸では燭台切と鶴丸は共通の友人(?)を持っているだけで初対面なはずだ。それでも江戸の回想や内番ではわりと仲が良さそうな様子だった。回想では小夜が「伊達の刀剣は仲が良さそうに見える(けど燭台切が上手くまとめてるだけかも)」と述べている。あだ名で呼び合っているし、伊達の刀で括られているし、普通に仲良しなのである。

 なので私は「もしかしたらこの二人は以前にどこかで出会ってるのかもしれない」とオタク特有の妄想をした。現実世界では会っていない。じゃあどこ?
 そうだよ、深淵だよ。

 墓入りを経験して深淵の境界にいた鶴丸と、焼けたのに日本刀と認定され彼岸から深淵まで戻ってきた燭台切。ふたりはアビスフレンズ。プリキュアじゃねえんだわ。

 鶴丸は変化しないことは死と同じと言う。平穏に反発するのは、死にたくないからだ。人々から忘却されることを死とするならば、二人とも死にたくないところはそっくりだ。
 それでも、鶴丸は今の審神者を「今代の」主と定めている。つまり次の主と居る未来に言及している。深淵の境界から、確かに此岸を見ている。


 金色の眼が深淵を覗く時、深淵からもまた金色の眼が覗いている。
 それでも、此岸は此岸を、彼岸は彼岸を見るしかないのだ。



という対比っていいよねという妄想でした。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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