【治承~文治の内乱 vol.37】 実際の富士川の戦い(前半)
はじめに
前回『平家物語』が記すところの富士川の戦いの様子をお話させていただきましたが、今回は富士川の戦いが実際どのような様子だったのか、当時の公家が記した日記から見てみたいと思います。
この富士川の戦いは実質平家本軍と源氏勢との戦いだっただけに、京都などの上方の記録でもその様子をうかがうことができます。そこで参考となる史料が、例によって藤原兼実(九条兼実)の『玉葉』と藤原忠親(中山忠親)の『山槐記』。そして今回は藤原経房(吉田経房)の『吉記』といった史料も参考になります。
『玉葉』に記されている富士川の戦い
まず『玉葉』(治承4年〔1180年〕11月5日条)から。
(意訳)
伝え聞いたところによれば、追討使らは今日(11月5日)夕方京に入った。まず平知度が入京した。その勢わずか20騎。続いて維盛が入京。この勢もまた10騎に過ぎないという。
彼らは昨月(10月)16日に駿河国の高橋宿に着いた。これに先立って、駿河国の目代(橘遠茂)および勢力を持つ武勇の者の軍勢3000余騎が甲斐国の武田の城(拠点)に攻め寄せたところ、皆ことごとく討ち取られてしまった。目代以下80余人の首を切り、路頭にかけられたという(鉢田の戦い)。
17日の朝、武田方より使者を維盛の館に送った〔書状を携えて〕。その書状には、
”年来お目にかかりたいと思っておりましたが、今もってその思いを遂げられずにおります。幸いにも宣旨の使いとしてこちらへ下向されるとのことで、当然なすべきこととして参上するべきところですが、程遠く〔一日かかる距離という〕、道は険しく、すぐに参ることが難しいのです。またこちらへお渡りいただくのも面倒なことでしょう。よって浮島原〔甲斐と駿河の間の広野という〕へお互い行き向かい、そこでお目にかかりたいと思います”
と、書かれていたという。藤原忠清はこれを見て大いに怒り、使者二人の首を切ってしまった。
18日、(追討使らは)富士川の河辺に仮屋を構えた。これは明朝19日に攻め寄せる支度である。そこで官軍の軍勢の数をかぞえたところ、4000余騎であった。やがて陣も設置し、軍議も終わって各々が休息をとっていると、官軍の数百騎が急に敵軍の方へ下ってしまった。引き留めようにもどうすることもできず、残る軍勢はわずかに1000、2000騎に及ばないほどになってしまった。一方、武田方の軍勢は40000余だったという。
これでは敵対することもできないため、ひそかに退却した。これは(藤原)忠清の謀略である。維盛はあえて退却しようとは思っていなかったが、忠清が退却することの理を説き、再三にわたって教示したため、多くの者がこれに賛同して、維盛も同意せざるを得なかったという。京都に帰ることになってからというもの軍勢の士気はみるみる下がっていき、残っていた軍勢の半数が逐電(逃亡)してしまった。それまでの事の次第を見るに、まったくもってただ事でなかったという。
今日(11/5)、勢多(今の滋賀県大津市瀬田)に着き、まず使者〔使者は馬允満季〕を禅門(清盛)に送って子細を報告した。これを聞いた清盛は大いに怒って、
「追討使を承った日、命を君(安徳帝)に預けたのだから例え亡骸を野に曝したからといってどうしてこれが恥となろうか。追討使を承った勇士が戦果をあげずに帰ってくるなんていまだ聞いたことがない。もし京都に入るものなら誰が目を合わせるだろうか。不覚をとった恥を平家に残し、愚か者の名を世に留めるのか。早く路から姿を消せ。さらに京都へ入ってはならぬ!」
と言ったという。けれども(維盛は)ひそかに入京して検非違使の忠綱(藤原忠清の子)の邸宅に寄宿し、知度は維盛より先に入京していて禅門(清盛)の八条の邸宅にいるという。
(以上、)伝え聞いたあらかたの事を書き記した。きっと書き漏れもあろう。ただしこれは軍陣に加わった者の話である。他にも子細を話していたが、私の筆力では十分に書き表すことができない。
『山槐記』の記す富士川の戦い
続いて『山槐記』です。記事は治承4年〔1180年〕11月4日条と、11月6日条の2つです。
(意訳)
(11月4日)夜分に左近衛少将の平時実(平時忠の子)朝臣が来て示して言うことには、去る11月1日、駿河より藤原忠清が前右大将〔平宗盛〕の許に使者を送ってきて言うことには、頼朝の党類は数万騎であり、11ヶ国が頼朝と志を同じくしました。官兵はわずかに千騎で敵対できないため、しばらく駿河国を去って遠江国府で待機しようと思います。さらに軍勢を派遣してください。また景清(忠清の子)を信濃守に任じて追討使として派遣できるでしょうかと。
駿河目代の為頼の子は討たれた、あるいは目代一人が生き残ったという。ただしこの事は追討使の維盛朝臣は一切連絡してこず、ただ忠清だけが言ってきているという。
(意訳)
(11月6日)ある者がいうには、追討使の右少将維盛朝臣が今朝方旧都(平安京)の六波羅へ入った。(維盛は)9月(10月の誤り?)18日に駿河国へ着いた。同じ月の19日頼朝の一党は富士川に陣営を置き使者を遣わしてきた。何を言ってきたのかは知らない。維盛は忠景(藤原忠清の別名)に使者の処遇をどうするか尋ねたところ、忠景は、
「兵法では使者を斬りません。ですがそれは私合戦の時のことでございます。今追討使として(逆賊に)返答するべきものですかな。まずあちらの子細を尋問して斬るべきと存じます」
と答えた。維盛はこの言葉に従って使者を拷問した。使者が言うには、(源氏方の)軍兵は数万あり、あえて敵対するものではないという。この問いのあとに(使者を)斬首してしまった。ある人はこれをめったにないことだという。
官兵はわずかに1000余騎、まったく戦うことはできなかった。それに諸国の兵士はみな内心では頼朝に心を寄せており、官兵らは互いに心変わりを恐れ、しばらく逗留していれば(心変わりした者らは)退路を塞いで包囲しようとするだろうと言い合った。忠景らがこの事を聞き、戦う意欲をなくしてしまっていると、(ちょうど)宿の傍らにあった池の鳥が数万にわかに飛び去り、その羽音が雷のような音を出した。そこで官軍の兵はみな軍兵(敵)が攻め寄せてきたものと疑って夜中に引き退いた。自ら宿所であった館を焼きながら、雑具などを持って、身分の上下を問わず競うように走った。(しかし)忠度や知度は(忠景らが)引き退いたことを知らず、彼らの後を追うように退いた。忠景は伊勢国へ向かい、京師に維盛は入った。近江国の野道に着いたときは50,60騎あったという。この事をある者は感心した。兵法で(戦わずに)引き退くことは無難の策であるからである。またある者はこの事を批難した。
近日あちらこちらでデマがはなはだ多い。これらのデマが実であることは少ないと思われる。とはいえ、巷の話を聞き、それに従ってあらかた記した。
後日、頭弁(蔵人頭〔帝の秘書室長のようなもの〕で弁官〔行政事務担当〕を兼任した者)経房が示し送ってきて言うには、東国追討の事、平中納言(頼盛)と平宰相(教盛)が下向すべきという指示があるものの、まずは伊勢守清綱(平清綱)を東海道より下向させるという。また鎮西(九州)の武士を船にて東国へ遣わすとも言っている。
薩摩守忠度、三河守知度、筑前守貞俊(平貞能?)、大夫尉忠綱(伊藤忠綱)は三河国に留まり、右少将維盛は近江国にいることを聞いた。新都(福原京)では(この度の事態を)非常に嘆いているという。
『吉記』の記す富士川の戦い
そして最後は先ほどの『山槐記』にも「頭弁経房」とチラと名前が出てきた吉田経房の『吉記』(治承4年〔1180年〕11月2日条)です。
(意訳)
追討使の事でちまたのウワサが飛び交っている。ただしある者が言うには、権亮(平維盛のこと)が駿河国に下着したおり、駿河国の軍勢2000余騎〔目代(橘遠茂)を棟梁として〕でもって甲州に攻め寄せたところ、(敵の甲斐源氏は)目代の軍勢が通過した後にその道を塞ぎ、木の下や岩影に歩兵を隠し置き、これを皆ことごとく矢を射たてて討ち取らせた。(目代方は)非戦闘の下人少々のほかに(戦地から)帰還した者はいなかった。
その後謀反の輩〔頼朝か、武田か〕が牒状(廻し文)を送ってきた。その状の内容を詳しくは聞いていない。その状を持ってきた使者を糾問した後に首を斬った〔使者を殺害したことを感心する者などはいなかった〕。
その後頼朝襲来とウワサが伝わってきた。彼らの軍勢は巨万で、追討使の軍勢では敵対できない。よって引き返そうと思っていたうちに、手越宿の館で失火して〔追討使に従っていた坂東の者どもが火を放ったという〕、身分の上下もなく気を失うくらいに驚いたため、ある者は甲冑を捨て、ある者は馬に乗ることを忘れて逃げ去ったのである。
これはつまり東国の軍勢が近江国よりみなことごとく(自分たちに)味方するように兼ねてより根回ししていたために、あえて(追討使に)味方する者はいなかった。ある者は自身は参陣していても、一族の者や家人・従者までは伴って来ず、ある者は形勢を見て逆徒に従うなど、いよいよ官軍弱しと見るやそれぞれが逐電し、追討使の軍勢に残った者は京から下ってきた者ばかりでわずかであった。世間では(官軍の)追い返しと称され、古今追討使が派遣された時このようなことになってしまったのはいまだかつて聞いたことがない。もっとも悲しむべきことである。ただし今回の事はただ事ではない。だから訳もなく詳しく記さない。実際はどうであったのか尋ね知ろうと思う。
3つの史料を読み比べて
ちょっと長かったですが、いかがでしょうか。
これらお三方の記述を見ると、『平家物語』や『吾妻鏡』の記述と異なることがわかります。
追討使の軍勢は東国の軍勢があまりにも多く対抗できなかったことから、態勢を立て直すために富士川から自発的に撤退しようとしていたことがうかがわれ、いわば戦略的撤退をしたというのが実際のところのようです。
しかし、同時に東国追討使の士気が著しく下がっていた様や諸国から動員された兵員が逃亡するなど軍勢としてもはや統制が取れていなかったこともうかがわれます。
また、例の水鳥の話もこのころすでに人々のうわさとして広まっていて撤退のきっかけになったこともわかりますが、その水鳥は富士川の水鳥ではなく平家方の宿所のそばにあった池の水鳥であったこと(『山槐記』)。また、追討軍に上へ下への大混乱をきたしたのは水鳥ではなく、撤退途中の手越宿(今の静岡市手越)付近での火災によるもので、その火災は追討使の軍勢の中にいた坂東の武士が離反して引き起こしたと記されている(『吉記』)のも興味深いところです。
官軍敗北の原因
さて、官軍がなぜこれほどまでの敗北を喫したのでしょうか。
言うまでもないことですが、官軍は朝廷の宣旨や太政官符まで受けたれっきとした正規軍です。その正規軍が満足に軍勢を集められずに撤退を余儀なくされたのです。この頃の朝廷の威信がそこまで失墜していたとも思われません。九条兼実も吉田経房も「ただごとではない」と記しているように、いくら東国の源氏勢が強大であっても、ここまで朝廷の正規軍が東国の軍勢にひけを取り、まるで空中分解してしまうような状態になるのでしょうか。
これについて、従来は追討軍の構成が「駆武者」と呼ばれる諸国で徴発された軍兵主体であったために著しくその士気を欠いていたからと説明されます。ところがこの「駆武者」は平家に限らず当時の軍勢構成で主体となるものであって、のちに源氏勢が西国へ進撃する際にも「駆武者」動員が行われていたことが示されています(川合康氏『源平合戦の虚像を剥ぐ』1996年など)。確かに半ば強制的に動員された軍兵の士気が当初からあまり高くないのはわかりますが、その理由ばかりでもなさそうです。
そこで手がかりとなる記述が『吉記』のなかにあります。
“これ則ち東国の勢江州より皆悉く付くべき由、兼ねて支度する処、敢へて付かず”というところです。東国の勢、つまり頼朝方か甲斐源氏方が近江国から東の諸国に対して味方するように働きかけていたというのです。
東国の軍勢が日に日に増えて関東をほぼ掌握したというウワサが都ばかりでなく、思いのほか全国各地に伝わっていて、かねてより平家主導の中央の施政に不満を高めていた勢力などが同調を示したために、この源氏方の働きかけは功を奏し、追討使は思うように軍勢を集められず、集まった軍兵も士気がより低かったのではないでしょうか。
さらに、これはあくまで推測に過ぎませんが、『平家物語』で語られる誇張された東国の武士の荒々しさや勇猛さといったものに似たような話が各地にウワサとして広がっていた可能性もあります。
もっとも追討軍の中には東国の武士も含まれており、平家の者が大番役としても上京してくる東国の武士のことを知らないはずはありませんが、他所の地方などで普段東国の武士と関わりがない者を動揺させるには十分だったのではないでしょうか。つまり、東国勢は戦前に巧みな情報戦を展開していたと捉えることができるのです。
他の敗北原因としては、富士川で対陣する前に行なわれた前哨戦・鉢田の戦いで駿河目代率いる2000~3000余騎の軍勢が壊滅するという無残な結果も大きな要因として挙げられます。それまで東国の軍勢は強いとウワサされていたのが、これによって実証された格好となってしまったからです。
治承・寿永の乱の頃の戦いについて
これは余談ですが、鉢田の戦いにおいて甲斐源氏軍は伏兵を用いたことが『吉記』に記されているのも興味深いです。従来、この治承・寿永の乱の頃の戦いは弓射騎兵(弓騎兵)中心の一騎打ち戦法が主流とされていますが、このように伏兵を配して歩兵での戦いも行われていたということはもっとこの時代の戦法は多様化していたのではないかと思わせるのです。
なぜ一騎打ち戦法を主流とする見方になってしまったのかは『平家物語』や蒙古襲来の時の竹崎季長の逸話などが多分に影響していると思われますが、これは物語が一騎打ちをクローズアップして描くことによって、個々の武士の華々しい活躍を強調しようとした演出のようなものだったのが、後世の人々はこれを戦の勝敗を決する重要なものと誤解してしまったからなのではないでしょうか。
(もう少し詳しく語りたいところですが、もうかなり長くなってるのでこの辺で…笑)
ということで、今回はここまでとして次回は『実際の富士川の戦い(後半)』としまして、富士川の戦いの行われた場所をふまえて『吾妻鏡』の記述の虚実をお話ししたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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