見出し画像

【源 頼政 vol.1】 略伝

平安末期の武士、歌人。長治ちょうじ元年(1104年)、摂津源氏せっつげんじ源仲政みなもとのなかつなの嫡男として生まれました。母は藤原南家なんけ・藤原友実ともざねの娘。史料が著しく乏しいために若いころの活動など詳しいことは不明ですが、保延ほうえん2年(1136年)に33歳で従五位下じゅごいげに叙せられていることからして、あまり出世は早くなかったようです。

その後も目立った活動がなかったようですが、仁平にんぺい3年(1153年)に美福門院びふくもんいん昇殿しょうでんを許され、それ以降ようやく記録が散見されるようになります。

久寿きゅうじゅ2年(1155年)に兵庫頭ひょうごのかみ任官。保元ほうげんの乱に際しては、美福門院に近侍する立場から後白河天皇方に付きます。その後の平治へいじの乱では、あくまで二条親政にじょうしんせいの動きと呼応する形で動き、当初は藤原信頼のぶより・源義朝よしともらの後白河院政派と協調の姿勢を示していましたが、途中、二条親政派の藤原惟方これかたらが二条天皇を伴って、平清盛の本拠地・六波羅ろくはらへと脱出すると、頼政もそれに合わせて平家方と動きを合わせました。これには頼政が同族である源義朝を裏切ったとの批判が今でも根強いですが、頼政はあくまで二条天皇の藤原信頼・源義朝らの追討宣旨に従い、美福門院に近侍する武士として行動しているのであり、この批判はあたりません。

頼政は平治の乱に勝ち残り、大内守護おおうちしゅご(内裏の警備)などを勤めるなどこれまで通り京武者として活動していましたが、乱後の清盛ら平家一門の目覚ましい躍進ぶりとはうらはらに、しばらく従五位上じゅごいじょうの位階のままでした。しかし、仁安にんあん元年(1166年)10月21日、頼政63歳の時に正五位下に昇進して以降、しばらく昇進を重ねています。正五位下に昇叙された二か月後の12月30日にはついに内昇殿ないしょうでんを許され、明けて仁安2年(1167年)1月30日、一気に従四位下へと昇進。そして翌仁安3年(1168年)11月20日にはさらに従四位上へと昇進しました。これまでになかったほどの昇進スピードです。このように頼政の位階が次々に上昇した背景として考えられるのは、平清盛の思惑です。

清盛はちょうど頼政が位階を急速に上昇させていた時期と同じくして、仁安元年(1166年)11月に内大臣ないだいじん、翌仁安2年(1167年)2月には従一位太政大臣だいじょうだいじんへ昇進して位人臣を極めていました。その太政大臣職は名誉職としての意味合いが強いため、わずか3か月後の5月には太政大臣を辞任して有終の美を飾ったとばかり、平家の家督も嫡男・重盛しげもりに譲って表向きは政界を引退しています。
ところが、ちょうどこの頃から清盛はむしろ国政への関与の度合いを深めていることがわかっています。この当時、政界では六条天皇の後継として、清盛の義妹・平滋子しげこと後白河院との間の子である憲仁のりひと親王が立太子りったいし(皇太子に立てること)されており、この憲仁親王が天皇に即位すれば初の平氏系の天皇として、また、これまで皇位継承がなされてきた鳥羽とば院の皇統に変わる新たな皇統として、平家の権勢もいよいよ高まる事は明らかでした。そこで清盛はこの憲仁親王の天皇即位を確固たるものにするべく、家督を譲って自由な立場となり「前・太政大臣」として積極的に国政へ参加することで、それに向けて着々と布石を打っていたのです。

そこで頼政です。当時頼政は鳥羽院、美福門院、近衛このえ天皇、後白河天皇、二条天皇、暲子内親王しょうしないしんのう(八条院)と仕えてきた経緯から鳥羽院の皇統を守護する京武者として目されており、鳥羽院の皇統から憲仁親王から始まる皇統に切り替えたい清盛にとっては、頼政の位階を一気に上昇させてあげることで恩を売り、清盛サイドへと懐柔かいじゅうすることで平氏系天皇の即位とその皇統維持の布石の一つとしておきたいとの思惑があったのでないかと考えられるのです。

治承2年(1178年)12月、頼政は従三位じゅさんみに叙され、源氏では初となる公卿くぎょうとなりました。これも清盛の奏請そうせいによるもので、清盛はこの翌年、治承3年(1179年)11月に後白河院を鳥羽殿に軟禁してその院政を停止するとともに後白河近臣を多く処罰した「治承三年の政変」を起こし、一気に平家政権の実現を成功させていることから、頼政の従三位昇進もこれへ向けての地固めの一つだったと見ることができます。

頼政はこうした清盛による懐柔策により、世間からは清盛から目をかけられる平家派武士の一人と見なされていましたが、治承三年の政変後より頼政の行動が変化します。治承3年(1179年)11月28日、頼政は突如出家します。政変が起こってわずか2週間ほどのちのことです。
従来この出家については『平家物語』などにより、従三位昇進に満足した頼政がもはや思い残すことはないと息子の仲綱に家督を譲った上で隠居したものと語られることが多いのですが、出家は従三位昇進より1年弱経過してからのことであり、この説明ではいささか不自然です。そもそも、この時頼政は75歳の高齢であり、家督を譲って隠居するのがかなり遅いです(息子の仲綱でさえ53歳と当時隠居していてもおかしくはない年齢です)。この遅い隠居については従三位の位階を得るために隠居せずにいたと説明されるのですが、それほど望んでいた従三位に叙された際、頼政はすぐ拝賀はいが(朝廷に叙位のお礼を申し上げること)せずに約4か月後の治承3年(1179年)4月にようやく拝賀しています。これに対しては、この間頼政が重病であったためと説明されていますが、この約1年後には以仁王もちひとおうとともに反平家の軍勢を催すのです。これらのことを考慮すると、頼政の出家は治承三年の政変への抗議であり、そもそも従三位昇進すら頼政が望んでいたものではなかった可能性があります。

治承4年(1180年)5月。頼政は以仁王の平家打倒計画に加担するも計画が露見してしまいます。頼政が以仁王の計画に加担した動機は定かではありませんが、以仁王は頼政が近侍していた八条院の猶子ゆうしであり、鳥羽院の皇統を受け継ぐ資格のある皇子でした。そこで頼政は鳥羽院の皇統に属する人物たちに長年仕えてきたこともあって、以仁王もしくは八条院からの協力要請に応えたものと思われます。計画が発覚した際、平家は頼政がそれに加担していることを知りませんでしたが、園城寺おんじょうじへ以仁王が逃れると、頼政はこれに合流するべく一族郎党を率いて挙兵。反平家の姿勢を鮮明にしました。その後、形勢不利と見て、頼政は以仁王一行とともに南都・興福寺へ向かいましたが、途中の宇治平等院付近で平家の追手と交戦。衆寡敵せず敗死しました。なお、頼政最期の地は平等院内にある“扇ノ芝”であるとも、『延慶本平家物語』などで描かれる木津川河畔とも言われ、定かではありません。

⇒次記事
https://note.com/oyomaru0826/n/n3013a3d41f1f

(参考)
多賀宗隼 『源 頼政』新装版第2刷 吉川弘文館 1997年
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
生駒孝臣 「源頼政と以仁王ー摂津源氏一門の宿命ー」
(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』中世の人物○京・鎌倉の時代編 第二巻 所収)清文堂 2014年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。