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【源 頼政 vol.2】 頼政の鵺退治

仁平にんぺいの頃のことですから近衛このえ天皇がご在位の頃のことです。
主上(天皇)が夜な夜な怯えることがありました。そこで主上の怯えを取り除くため、有名な高僧や貴僧に頼んで、様々な加持祈祷が行われましたが、その効果の兆しすら現れることはありませんでした。

主上はうしの刻(午前2時ごろ)に決まって怯えました。ちょうどその頃になると、東三条の森の方から黒雲が一むら立ち来て、御所の上を覆ったのです。
 
この事態に公卿たちは話し合いました。

「去る寛治かんじ(1087年~1094年)のころ、堀河ほりかわ天皇がご在位の時、このように主上を怯えさせることがあった。その時は将軍・源義家よしいえ朝臣が南殿の大床に控え、弓の弦を三度鳴らしたあと、『さきの陸奥守むつのかみ源義家!』と高らかに名乗りをあげられたところ、主上はそれ以来怯えることがなくなったという。そうであるならば、今回も先例にならって武士に申し付けて警護させるべきである」

こうして源平両家の中から適任となる武士を選ぶことになり、源頼政が選び出されました。
 
この時、頼政は兵庫頭ひょうごのかみという官職に就いていました。頼政はその命令を受けて、

「昔から朝家(国家)に武士を置くというのは、逆叛の者を退け、違勅いちょく(天皇の命令に違反すること)の者を討伐するためである。目にも見えない変化へんげの者を退治せよと仰せ下されること、いまだ承ったことはない」

とは言いながら、天皇の命令であるため逆らうわけにも参らず、召しに応じて宮中へ参内することにしました。

そして、信頼する郎等ろうとう(≒家来)で、遠江国とおとうみのくに(現在の静岡県西部)の住人・いの早太に矢を背負わせて、頼政は二重の狩衣かりぎぬに、山鳥の尾でいだとがり矢を二本、重藤しげとうの弓とともに手に取り、南殿の大床に控えました。
 
さて、日ごろ人々が言うことに違わず、主上がいつものようにうしの刻ごろに怯えはじめると、東三条の森の方から黒雲が一むらやってきて、御所の上空を覆いました。

頼政がキッと見上げてみれば、黒雲の中に怪しい者の姿が見えます。頼政はあれを射損じるものならば、このままこの世にいようとは思わぬと弓を構え、「南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ」と心の中で唱えて、げんをよく引いて一矢放ちました。

頼政は確かな手ごたえを感じました。
矢は見事当たったのです。
「しめた!おう!」
そして雲から落ちてきた変化の者に、猪早太が素早く寄って取り押さえると、続けざまに九回刀で刺して仕留めました。
 
その後、人々がてんでに火を灯して、この変化の者を見てみれば、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎、鳴く声はぬえに似ていました。得体のしれぬ、いかにも恐ろしいものであったことは言うまでもありません。

主上は見事変化へんげの者が退治されたことを喜び、師子王ししおう(獅子王)という剣を頼政に与えました。
宇治の左大臣(藤原頼長よりなが)がこの剣を取り次いで頼政に渡そうと、御前のきざはしを半ばまで下りかかると、時は四月十日ごろの事であったため、ホトトギスが二声三声鳴いて雲井くもい(大空)を飛んで過ぎ去っていきました。そこで左大臣は、
 
ほととぎす 名をも雲井(※1)に あぐるかな
(あのほととぎすのように、宮中にその名を知れ渡らせたなぁ)

と頼政に声をかけると、頼政は右ひざをつき、左の袖を広げて、月を横目に見ながら、
 
弓張り月の 射るに任せて
(半月〔弦月〕の光に導かれて射たまでのことです)

と返し、剣を賜って退出していきました。
 
この様子を見ていた人々は、
「この頼政という者は武芸だけでなく、歌道にもすぐれたものを持っておる」
と感心したといいます。

さて、この頼政の退治した変化の者は、その後、うつぼ船(※2)に乗せて流されたということです。
 
また、応保おうほう(1161年~1162年)のころ、その時は二条天皇がご在位の時でしたが、ぬえという化け鳥が宮中で鳴いて、しばしば帝を悩ましたことがありました。

そこで前回同様、頼政にこの化け鳥を退治させることとなりました。
 
時は五月二十日ごろ、まだ宵の事であるのに、鵼は一声鳴いて、それっきり鳴かなくなってしまいました。この日は目をこらしても見えないほどの闇夜で、当然姿かたちも全くわからない有様で、矢の狙いを定めようにも定めることができません。

そこで頼政は一計を案じました。まず大きな音の出る大鏑矢かぶらやを鵼の声がした内裏の上空へ向かって放ちました。すると、鏑矢の音に驚いた鵼が、闇夜をぴいぴいと鳴いて飛びまわったのです。頼政はすかさず二の矢である小鏑矢をつがえて、今度はその鵼を狙って放ちました。

小鏑矢はシュッと鵼の体を射切って、鵼と一緒に落ちてきました。鏑矢の音に驚いた宮中の人々の間で騒ぎとなりましたが、ともあれ退治はまたも成功しました。
 
鵼退治の恩賞として今度は御衣おんぞが与えられました。そして、大炊御門おおいのみかどの右大臣・徳大寺公能とくだいじ-きんよし(藤原公能)公が、この衣を取り次いで頼政へ渡そうとしたとき、
「昔は雲の外の鵺を射て、今は雨中の鵼を射たり」
と感じ入り、
 
さつきやみ(五月闇)  名をあらはせる(現せる) こよい(今夜)かな
(梅雨時期の暗い夜であるのに 今夜はその名をはっきり現したものだなぁ)

と声をかけたので、頼政は、
 
たそがれ時と 過ぎぬと思ふに
(夕暮れ時もやや過ぎたばかりだと思っておりましたが・・・)

と返し、御衣を肩にかけて退出していきました。
さらにこの時、頼政は伊豆国を賜り、子息の仲綱を国司にしたといいます。



ということで、以上が『平家物語』(延慶本)にある頼政の鵺退治の話です。

ちなみに、頼政が退治した2体の化け物にそれぞれ悩まされていた天皇は近衛天皇と二条天皇でしたが、この両天皇、実は鳥羽院の皇統を受け継ぐ天皇で、後見人は鳥羽院の后だった美福門院びふくもんいんでした。
そこで、これらの事実関係をもとに推測すると、この鵺退治説話の背景には鳥羽皇統の後見人たる美福門院と、その彼女に仕え鳥羽皇統を脅かす存在を打ち払う頼政という図式が読み取れるという指摘があります(※3)。

確かに、源頼政は大内守護おおうちしゅごとして単に内裏の警備役を勤めていたわけではなく、鳥羽院・美福門院に仕えていたことから鳥羽皇統の守護者でもあったと言えます。そして、このことを念頭に置けば、この後に起こる保元ほうげん平治へいじの乱、そして以仁王の乱において頼政の取った行動が一貫したものであったことが読み取れます。

注)
※1・・・雲井には雲の上、つまり「大空」という意味と、「宮中・禁中」という意味があり、頼長はその両方の意味を掛け合わせています。
※2・・・うつぼ船は弥生時代~古墳時代に見られる木棺の一つ、舟形木棺のようなものであったと思われます。
※3・・・生駒孝臣 「源頼政と以仁王ー摂津源氏一門の宿命ー」
(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』中世の人物○京・鎌倉の時代編 第二巻 所収)清文堂 2014年 

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https://note.com/oyomaru0826/n/n60db359896ff

(参考)
櫻井陽子編 『校訂 延慶本平家物語(四)』「廿八 頼政ヌヘ射ル事 付三位ニ叙セシ事」 汲古書院 2002年)

生駒孝臣 「源頼政と以仁王ー摂津源氏一門の宿命ー」(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』中世の人物○京・鎌倉の時代編 第二巻 所収)清文堂 2014年

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