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【治承・寿永の乱 vol.40】 敗将たちの処罰

論功行賞

治承じしょう4年(1180年)10月23日(『吾妻鏡あずまかがみ』)、駿河国するがのくにから引き上げた鎌倉源氏軍(頼朝勢)は相模国府さがみこくふに到着。そこでこれまで付き従ってきた武士たちの論功行賞ろんこうこうしょう(それぞれ功績の大小を論じて、それに応じた賞を与えること)が行われました。

しかし、頼朝方は挙兵以来新たに得た土地がほとんどなかったため、武士たちに新たな土地を与える(新恩給与しんおんきゅうよ)というよりは、武士たちが従来管理してきた土地に対する保障(本領安堵ほんりょうあんど)が中心になりました。

これまで武士たちは管理してきた土地の保障を中央の有力貴族や有力寺社などに寄進することで得てきましたが、これだけでは時の政治情勢や国守の交替などでどうなるかわからない不安定な要素が多く、決して安心できるものではありませんでした。ところが、ここで新たに生まれた政治権力によって保障を認められることは大いに意義があったのです。


敗将たちの処罰

さて、『吾妻鏡』にはこの論功行賞が行われた同日に、頼朝に敵対した武士たちの処遇も言い渡されたことを記しています。

先だって大庭景親おおばかげちか山内首藤経俊やまのうちすどうつねとし長尾為宗ながおためむね定景さだかげ河村義秀かわむらよしひでといった石橋山で頼朝方と戦った武士たちは東国追討使(平家本軍)の敗北を受けて頼朝に降伏、囚われの身となっており、大庭景親は上総広常かずさひろつねに、山内首藤経俊は土肥実平どいさねひらに、長尾為宗は岡崎義実おかざきよしざねに、長尾定景は三浦義澄みうらよしずみに、河村義秀は大庭景義おおばかげよしにそれぞれ身柄お預けとなり、追って彼らの処断が申し渡されることになっていました。

彼らの処断については『源平盛衰記』や『吾妻鏡』に、なかにはエピソードを交えて記されています。

まず大庭景親。

彼は石橋山での大将だったこともあって斬首の刑に処されることとなりました。本来ならそれまで彼の身柄を預かっていた上総広常の所管で斬首が行われるところでしたが、景親の兄である大庭(懐島ふところじま)景義が他人によって弟を斬られるよりは…と頼朝に申し出て、景親の首を斬ったことになっています。

『吾妻鏡』は誰によってかは記されていませんが、10月26日に固瀬河かたせがわ(片瀬川)の河辺で斬首されたと記しています。

続いて、山内首藤経俊です。

山内首藤氏は代々河内源氏かわちげんじの家人として知られており、彼の父や兄はかつて頼朝の父・義朝よしともに従って平治へいじの乱に参戦し、敢えない最期を遂げた武士でした。

ところが、俊綱は頼朝の挙兵の呼びかけに応じず、挙兵呼びかけの使者として来訪した藤九郎盛長とうくろうもりなが安達あだち盛長)に対して頼朝の悪口を言ってのけ、かえって景親に同調して頼朝に敵対したのです(【治承・寿永の乱 vol.14】)。

頼朝はそんな経俊を前にして、

「お前の父・俊綱としつなや祖父・俊通としみち(※)はともに平治の乱の時、故殿(源義朝)の御供として討死した者であった。お前はその子孫として生き残った。私が国を治めることになれば、どうにも気の毒で取り立てて、祖父や父親の菩提を弔わせようと深く思っていたものを、盛長に会って数々の悪口を吐き、その上景親に同調して頼朝に矢を射るとはどうしたものだろうか。富士の山とたけくらべして世を取ることもあるのだ」

(※実際は経俊の兄が俊綱、父が俊通ですが『源平盛衰記』にはなぜか父と祖父になっています。ちなみに、経俊の祖父は通義〔義通〕とされています)

と言って、土肥実平どいさねひらに直ちに首を刎ねるように命じました。命令を受けた実平は仰せのままにと経俊を引っ立ててその場を退去しました。

ところが、実平は経俊を自分の宿所に置いた上で頼朝の許へ戻ってきて、

「経俊の悪口のことといい、合戦で景親に味方したことといい、直ちに首を刎ねるべきことではありますが、彼の親祖父は仰られたように故殿(義朝)のお命の替わりになった者たちです。(経俊は)愚かな心持ちで思慮もなく悪口を申したのでしょう。ここはただ領地を召し取って経俊の一命を助けることで御恩としていただければ、かの俊通や俊綱の魂魄も喜び、しいては故殿(義朝)のご追善供養にもなりましょう。経俊を追い放ちましょう。生きていたからといって謀叛などを起こすような人物ではございません」

と、こまごま経俊の助命を頼朝に嘆願してきたのです。これを聞いた頼朝は実平の言うことにも一理あると思い、結局山内首藤経俊を釈放することにしました。

なお、この山内首藤経俊の処罰については『吾妻鏡』にも記述があり、治承4年(1180年)11月26日のこととして、このような話を載せています。

26日甲戌きのえいぬ。山内滝口三郎経俊を斬罪に処すべきであるとの命令が内々に出された。これを聞いた経俊の老母(山内尼やまうちのあま:頼朝の乳母でもありました)は愛しい息子の命を救うために泣く泣く頼朝の前に参上し助命を乞うた。

「かつて(首藤すどう資通すけみち(経俊の高祖父)が八幡殿はちまんどの(源義家よしいえ:頼朝の高祖父)に仕え、その姉が廷尉禅室ていいぜんしつ(源為義ためよし:頼朝の祖父)の御乳母うばになって以来、代々忠節を源家のために尽くしてきたことは数えきれないほどです。とりわけ(山内首藤)俊通は平治の乱で戦場に臨み、亡骸を六条河原にさらしました。その上で、わが子経俊が景親に同調したというのは、その罪が責められて余りあることではありますが、これはただ平家への聞こえが悪くなるのをはばかったためなのです。およそ今回景親に同調した者たちの多くが(頼朝の)恩赦に預かっております。経俊もまたなんで先祖の功績を考慮され、恩赦に預かれないことがありましょうか」

頼朝はこれに返事をせず、土肥実平に保管しておいた鎧を持って来させ、山内尼の前に置かせた。

この鎧は石橋山の戦いの際に頼朝が着用していたもので、袖には矢が刺さっていた。そしてその矢にははっきりと「滝口三郎藤原経俊」と記名されていたのである。そこで頼朝は自らその矢に書かれた名前を尼に読んで聞かせた。

山内尼はもはや何も言えず、やがて両眼にためた涙を拭って退出していった。

挿絵。笑

頼朝は後々のことを考えてこの矢が刺さったままの鎧を残しておいたという。とはいえ、老母の悲嘆に暮れる様や、経俊の先祖が源家に残した忠節を思い、経俊の罪は到底許されるものではなかったが、経俊の斬罪を取り消したという。

廿六日甲戌きのえいぬ。山内滝口三郎経俊斬罪に処せらるべきのよし、内々にの沙汰あり。彼の老母〔武衛ぶえ御乳母なり〕之を聞き、愛息の命を救わんが為、泣々なくなく参上し申してはく、資通すけみち入道八幡殿に仕え、廷尉禅室ていいぜんしつの御乳母たる以降、代々の間、微忠びちゅうを源家につくすことげてかぞふべからず。就中なかんづく俊通としみち平治へいじの戦場に臨み、むくろを六条河原にさらわんぬ。しかるに経俊景親にくみせしむるの条、とが責めて余り有りといへども、これ一旦平家の後聞を憚る所なり。およそ軍陣を石橋に張るの者多く恩赦に預からんか。経俊またんぞ曩時のうじの功にすぐれざらんやとてへり。武衛ことに御旨なく、預かり置く所の鎧をまいらすべきの由、実平に仰せらる。実平これを持参し、唐樻からびつふたを開きこれを取りだし、山内尼の前に置く。これ石橋合戦の日、経俊のせんこの御鎧の袖に立つ所なり。くだんの箭の口巻くつまきの上に、滝口三郎藤原経俊と注す。この字の際より其の(矢がら)を切り、御鎧の袖に立てながら、今に之を置かれる。はなはもっ掲焉けちえんなり。つてじかに読み聞かしめ給ふ。尼重ねて子細を申すことあたはず。双涙を拭ひて退出す。兼ねて後事をかんがみ給ふに依り、この箭を残さると云々。経俊の罪科に於ては、刑法のがれ難しといえども、老母の悲歎に優じ、先祖の労効に募り、たちまちに梟罪きょうざいなだめらると云々。

『吾妻鏡』治承四年(1180年)十一月二十六日条

ちなみに、この山内首藤経俊の免罪はどうも西相模に勢力を張っていた中村党の働きかけがあったようです。

経俊の助命嘆願をしたのは『源平盛衰記』では土肥実平、『吾妻鏡』では山内尼となっていますが、じつはこの両名、どちらも中村党出身者なのです。土肥実平は中村党を率いていた父・中村宗平なかむらむねひらの次男で、この当時かなりの高齢であった宗平に変わって実質中村党をまとめていました。そして、山内尼は中村宗平の姉妹とされていて、夫・山内首藤俊通が亡くなってからは中村党の勢力圏である早河庄はやかわのしょうで過ごしていました。

もっとも、この早河庄で過ごしていた女性は摩々局ままのつぼねという方なのですが、近年この摩々局と山内尼が同一人物であると指摘されています(※)。

(※)野口実 『坂東武士団と鎌倉』 戎光祥出版 2013年 など

このように、石橋山で敵対した者が許された背景の多くは、もとから頼朝方だった武士との深い血縁関係があり、それを無視して処罰することはできないといったことがあったようです。

次は長尾為宗です。

長尾為宗は石橋山にて頼朝方の武士であった佐奈田義忠さなだよしただを討ち取っていました(為宗は義忠に蹴飛ばされていたはずですが…)。
そのため、為宗は佐奈田義忠の父親である岡崎義実に身柄を預けられ、彼も斬罪に処せられることが決まっていました。

しかし、彼も結局斬罪を免れました。頼朝方との血縁関係の有無はわかりませんが、『源平盛衰記』はこのような話を載せます。

為宗は処刑される前夜、最後に行なうべき振る舞いとして、今夜限りと心を込めて夜通し法華経ほけきょうを読み続けていました。

岡崎義実はそんな為宗の読経を心に刻むように有り難く聞いて、思うところがあったのでしょう。処刑当日の朝に頼朝のもとへ行って為宗の免罪を申し出ます。

「長尾五郎(為宗)は今日斬るべき者ではございますが、彼は夜通し法華経を読んで、その声はとてもありがたく、貴く思えてきたのです。出家もしていないのにあのように経をそらんじて、念を入れて唱えることなどなかなかできないことです。直ちにあの者の首を斬ってしまうことによって、それを神仏が御覧になって、我らに罰を下すかもしれません。たとえあの者を斬ったとしても、与一(義忠)が生き返るわけでもありませんし、そればかりかこれを悪い行いとして地獄に落とされるかもしれません。できることなら与一の追善供養に彼を釈放したく存じます。もし釈放が叶わないのであれば、他の者に処罰を申し付けください」

頼朝はしばらく考えてから答えます。

「与一の敵であるからそなたに預けたのだ。預けたからには義実がどのようにするか決めればいいのだ。そのように過ちを法華経を唱えることで改める様子は実に神妙なことである。そなたがそのように心中痛み申すことを、我としても罰することなどできないではないか」

と義実の申し出を認めてくれたのです。義実は悦び帰って、急いで長尾為宗を呼び、

「貴殿はおおよそその罪科、決して軽くはなく、この義実にとっては与一の敵である。時をおかずにすぐにでも斬るべきところなれど、貴殿が夜通し法華経を唱えておられたのを聞いて、われは佐殿すけどの(頼朝)のもとへ行って貴殿の死罪を取り下げてもらよう申してきた。貴殿と組み戦った与一は殺されたが、これは貴殿にとっても与一にとっても互いに仏道に導き入れるきっかけの出来事だったのであろう。今は出家なされてへんぴな山里に閉じ籠もり、静かに経を読み念仏を唱え、与一の来世を弔ってくだされ」

と、死罪を免れたことを伝えて、早速僧侶を呼んで出家させ、僧の身支度を整えてあげた上で釈放しました。世の人はこの一件を聞き、岡崎義実は情のある人物だと感心したといいます。


また、長尾為宗とともに佐奈田与一(義忠)を討ち取った長尾定景さだかげ三浦義澄みうらよしずみのもとに身柄を預けられていましたが、彼も理由は不明ですが死罪を免れて三浦氏のもとで過ごしたようです。

彼はのちに三浦方の武士として和田義盛わだよしもりの乱(建暦けんりゃく3年〔1213年〕)で戦功を立てたり、源実朝さねともを暗殺した公暁こうぎょうを討ち取ったことが知られています。

最後は河村義秀です。

義秀は大庭景義に身柄お預けとなって、頼朝から斬罪に処すよう申し渡しが行われていましたが(『吾妻鏡』治承4年10月26日条)、彼も結局処刑されず景義のもとで過ごしたようです。

彼はのちに景義の計らいで鶴岡八幡宮の流鏑馬に参加し、妙技をふるって頼朝に許され、御家人になっています(『吾妻鏡』建久けんきゅう1年8月16日条)。

このように頼朝による敗将たちの処断で景親のように斬首された者は意外に少なく、他には荻野季重おぎのすえしげ(『吾妻鏡』は俊重と表記)や平井久重ひらいひさしげが処刑されたといいます。

石橋山の戦いで荻野季重は敗走する頼朝を追い、悪口雑言を頼朝に浴びせた者で、平井久重は北条時政の子である宗時を討ち取りました。


すぐに処罰が決定されたわけではなかった

なお、彼らは降伏してから最終的な処罰の決定を受けるまでに1ヶ月ほど経っており、身柄お預けになってから間もなく処刑された大庭景親を除いては、ほとんどの者が11月下旬から12月前半に処断の申し渡しが行われたことが『吾妻鏡』からうかがえます。

これは頼朝が処罰の決定に慎重を期したからということも言えるかもしれませんが、それよりも富士川の戦いののち、返す刀で急いで対応しなければならない事案が起こっていたためと思われます。かねてより反頼朝の動きを見せていた常陸国の佐竹氏がいよいよその動きを加速させていて、すぐに手を打たなければいけない状況になっていたのです。


ということで今回はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございました。

(参考)
上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年
川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年
野口実 『源氏と坂東武士』歴史文化ライブラリー234 吉川弘文館 2007年
野口実 『坂東武士団と鎌倉』中世武士選書15 戎光祥出版 2013年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第二』 吉川弘文館 1968年
水原 一 考定 『新定 源平盛衰記 第三巻』 新人物往来社 1989年

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