【治承~文治の内乱 vol.13】 頼朝、挙兵を決意する
都からの連絡
治承 4 年(1180 年)6 月 19 日(『吾妻鏡』)。
この日、伊豆にて長らく流人生活を送っていた源頼朝のもとに重大な情報がもたらされました。それは京都にいる三善康信からのもので、その内容は先月の末に鎮圧された以仁王の乱の際に、以仁王から平家追討の檄文、つまり“以仁王の令旨”を受け取った諸国の源氏などを討伐することが決定されたというものでした。
頼朝はこの以仁王の乱に直接かかわっていないものの、諸国にいる源氏の一人として、この“以仁王の令旨”を受け取っており、十分討伐の対象となったのです。康信にしても、今回のことはかつてないほどの重大事と考え、いつもの書面での連絡ではなく、弟の康清を直接伊豆へ下向させて、その事を伝えるとともに、頼朝に奥州へ逃れるように助言しました。
この三善康信という人物は明法家である中流貴族の出身で、母が頼朝の乳母の妹であるという縁から、かねてより頼朝と親交があり、頼朝が伊豆に流された後も 10 日に 1 度、月に 3 回都の情報を送り続けていました。これは都から遠く離れた東国の地にいる頼朝にとって、もちろん貴重な情報源の一つになっていました。
頼朝が以仁王の乱に呼応してすぐに動かなかったのは、以仁王・源頼政らの挙兵計画が早々に露見してしまったことを、この康信あたりからの情報ですぐに掴めていたからと思われます。そういう点でこの三善康信も流人・頼朝を支えた人物の一人でした。
このような康信と頼朝との関係からもわかるように、この当時の乳母を介した人の繋がり、言うなれば“乳母ネットワーク”は広範囲かつ影響力を持っていたことがうかがえます。頼朝には何人もの乳母がいたことが判明していますが、こうしたいくつもの‟乳母ネットワーク”によって、頼朝が多くの人脈と援助に支えられた様子が挙兵前後でよく見て取れます。
さて、この康信の連絡からほどなくした 6 月 27 日(『吾妻鏡』)。
今度は三浦義澄(※1)と千葉胤頼(※2)の 2 名が頼朝の許を訪れました。
彼らは大番役のため京都にいた際、以仁王の乱が起こったために在京期間を延長させられましたが、この度ようやく帰国の途につき、その途中に頼朝のもとへ寄ったといいます。
『吾妻鏡』は彼らと頼朝がしばらく閑談したと記しているものの、その会話の内容は記していません。ですが、おそらく頼朝は都の情勢を改めて彼らに確認したでしょうし、今後の対応についても話したことは想像に難くありません。
ともあれ、以仁王の決起が失敗に終わったことは、頼朝の置かれた状況を急速に悪化させ、何らかの対応を取らざるを得ない事態になったのです。
頼朝、挙兵を決意する
何らかの対応を取らざるを得ない今回の状況に際し、頼朝には 2 つの選択肢がありました。
一つは三善康信が助言するように奥州へ避難し、奥州藤原氏の庇護を求めるというもの。
奥州藤原氏は当主の藤原秀衡が 1170 年に鎮守府将軍(※5)に任じられるなど、朝廷や平家と良好な関係を維持しつつも、あくまで中立的な立場で東北地方を事実上支配しているため、庇護してもらうには都合の良い相手でした。
そしてもう一つは先手を打つかたちで挙兵をし、以仁王の平家追討の檄文、“以仁王の令旨”を大義名分として追討軍を迎撃するというものです。
ただし、頼朝は流人であるため動員できる兵力を持っておらず、挙兵するという選択はできないかに思われました。それにもかかわらず、頼朝は挙兵を決意します。彼はこれに先立つこと数年前、伊豆の豪族・北条時政の娘・北条政子と婚姻をしているため(※4)、北条家の全面的な支援は得られるようにはなっており、北条氏の兵力は期待できました。ただし、近年、この時の北条氏が動員できる兵力は、雑人(※5)などの非戦闘員を含めてもせいぜい 30~50 騎程度しかなかったと指摘されているため(※6)、北条氏の兵力だけでの挙兵は大変心許なく、さらに味方を集めて兵力の増強を図らなければいけない厳しい状況での決意だったことは留意しなければなりません。
『平家物語』には頼朝が時政に挙兵へ向けて相談する場面が描かれますが、この中で時政はこうした厳しい状況下にありながらも、三浦半島を本拠とする三浦義明、上総国の上総広常、下総国の千葉常胤の 3 名さえ味方つけば、挙兵は必ず成功すると進言しました。
この 3 名は関東地方で屈指の勢力を誇る武士であると同時に、かつて頼朝の父・義朝と主従の関係を結んだことがある者たちでした。つまり、時政は頼朝の父である源義朝とかつて縁の深かった坂東の武士たちへ頼朝の支持を呼びかけることで、一気に味方を増やし、状況は好転するとよんだのです。