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【鎌倉 雪ノ下・小町(鶴岡八幡宮周辺)エリア(前編)】 久しぶりの鎌倉⑥ (2019.11.17)

(※この記事は過去にアメブロへ投稿した記事をほぼ転載しております)

鎌倉散策記事⑥。
今回からエリアが変わって【雪ノ下・小町(鶴岡八幡宮周辺)エリア】ということで、その前編になります。

では、さっそく。


窟堂道いわやどうみちを東へ進み、南北に通る小町こまち通りとぶつかったら左折。そのまま直進して鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう境内の西端に沿う道(神奈川県道21号)を北上(北鎌倉・大船方面へ)していきます。

もうこのあたりは、鶴岡八幡宮のそばというだけあって、観光客の方々の往来で大賑わい。大型観光バスが次々に何台もやってきて、片側一車線の道路いっぱいに使って、わずかな駐車スペースへ何度か切り返しながらバックで入れるので、一般の車も歩行者もしばらく待つことになって、あたりは渋滞。

この日は行楽日和の日曜日だったこともあって、人も車も多く、かなり混みあっている状況でした。そんな中、わたくしめ、次なる目的地へ向かっていたのですが、なかなか歩みを進められません。

いやぁ~、こんな人いっぱいの鎌倉はじめてかも

どうにかして、目的地への曲がり角へやってきました。ここを左折(西折)すれば「巨福呂坂こぶくろざか(小袋坂)」です。
(巨福呂坂への入口はわかりづらいですが、曲がり角に「里のうどん」といううどん屋さんがあるので、そこを西折します)

最初は普通の住宅地の中を上っている感じですが、そのうちこの道が古道だったことを教えてくれるものがあります。

まず1個目。

巨福呂坂を上っていると、このような鳥居が見えてきます。

これは「青梅聖天おうめしょうてん」の鳥居です。鳥居をくぐるとすぐに階段があって、それを上りきった丘の上に社があります。

鳥居の傍らに立つ案内板によれば、この青梅聖天は南北朝時代に作られた双身歓喜天そうしんかんぎてんを本尊として祀ってあり、この巨福呂坂の頂上に近い地点に歓喜天が祀られたのは、足柄峠の「聖天堂」と同じく、峠を往来する人々の安全を願ってのものだったということです。

また、江戸時代に編纂された『新編鎌倉志』の巻之三には、鎌倉の将軍が重い病を得て伏し、季節外れの青梅を所望になったため、青梅を探し回ったところ、この宮の前にあった梅がにわかに青梅を実らせたんだそうです。そして、この青梅を将軍に献じて食べさせたところ、たちまちに将軍の病が癒えたので、以来、青梅聖天と呼ばれるようになったと記されています。


さて、青梅聖天の階段を下りて、さらに上っていくと道端にこのような「道祖神」や「猿田彦大神」と彫られた石碑や石像が建ち並んでいます。

これがこの道が古道であったことを教えてくれる2個目です。

石像や石碑の様子から江戸時代ぐらいのものと思いますが、今の県道21号線が開通する前まではこの道が山内やまのうち(北鎌倉)方面へ抜ける重要な道だったんでしょうね。

ここは巨福呂坂を上り切ったところです。舗装の道が途切れて、土の道が少し続いていますが、その先は行き止まりです(しかも私有地なので立ち入り禁止)。
つまり、旧道の巨福呂坂はもはや消滅してしまったルートなんです。

奥富敬之先生の『鎌倉史跡事典』には、この巨福呂坂は“円応寺えんおうじ裏の断崖上を廻り、建長寺けんちょうじの門前に出たらしい”としていますが、なにぶん山林、深い藪の中なのでこれ以上の探索はできません。


このように現在は往時を偲ぶことが一部でしかできない巨福呂坂ですが、ここは鎌倉時代の重要人物たちが関わっていることが知られています。

まずは鎌倉政権第3代執権しっけん北条泰時ほうじょうやすときさんです。

『吾妻鏡』の仁治にんじ1年(1240年)10月10日条には、北条泰時が自邸において、山内に道路を造るよう命じたとあり、10月19日には泰時が山内に道路を造る命令を下したのは、従来の道が険しく、往来にわずらいがあるためと記しています。

この山内の道路というのが巨福呂坂を指しているのかはわかりませんが、この巨福呂坂を含めた山内(北鎌倉)へ通じる道路の拡幅、改良工事が行われたものと考えられています。

ちなみに、同じ年の11月30日には鎌倉六浦津むつらのつ(横浜市金沢区)を結ぶ道路(六浦道むつらみち)の拡幅、改良工事も議定され、翌仁治にんじ2年(1241年)5月14日には六浦道の工事が遅れているとのことで、泰時が視察に訪れ、自身の乗馬に土石を運ばさせてまで現場の工夫たちを励ましたなんて記事まであります。

どうやらこの頃、泰時は鎌倉へ通じる道路の整備を改めて行うことに力を入れていたようです。


そして、次に登場するのが鎌倉政権第5代執権しっけん北条時頼ほうじょうときよりさんです。
(第4代執権は時頼さんの兄ちゃん・経時つねときさんですが、在任期間約4年、23歳という若さで亡くなりました…)

『吾妻鏡』の建長けんちょう2年(1250年)6月3日条には、このように記されています。

山内やまのうちならびに六浦むつらなどの道路は、先年に鎌倉へ滞りなく通行できるよう険しい道を改良して直したが、今また土石でそのあたり一帯が埋まってしまった。そこで元のようにするように、その御沙汰を(時頼が)仰せられた”

この山内道と六浦道というのは、鎌倉から山内庄やまうちのしょうへ、または六浦庄むつらのしょうへと通じる道で、建暦けんりゃく3年(1213年)5月の和田義盛わだよしもりの乱以降、山内庄は北条義時ほうじょうよしとき(第2代執権)・泰時そして時頼へと伝領(受け継いで所領とすること)されていて、六浦庄はやはり和田義盛の乱以降、泰時の弟・金沢実泰かねさわさねやすが所領としていて、時頼の頃は実泰の子・実時さねときが伝領していました。

つまり、この両庄園は鎌倉北条氏の重要な庄園で、それらと鎌倉をたやすく往来でき、輸送もスムーズにできるようにする必要があったのです。

この山内道や六浦道の再整備のおかげで、山内には泰時・時頼らの別邸や建長寺、最明寺さいみょうじといった寺社が建てられて栄え、六浦は六浦津が鎌倉の外港としてますます重要性を高め、金沢流北条氏の本拠地として発展していくことになります。


そして!最後に登場するのは赤橋流北条氏・赤橋守時あかはしもりときさんです。(まだ登場するの?笑)

この方と巨福呂坂の関わりは、何と言っても元弘げんこう3年(1333年)5月18日の新田勢による第1回目鎌倉総攻撃です。

化粧坂けわいざか(仮粧坂)の守将が金沢貞将かねさわさだゆきさんなら、この巨福呂坂は赤橋守時さんです。ちなみに、極楽寺坂ごくらくじざか大仏貞直おさらぎ-さだなおさん。
(私はこのお三方を鎌倉北条氏が見せた最後の華だと思っています^^)

赤橋守時も巨福呂坂に迫る新田勢と激しく戦い、それを追い払っております。しかし、守時は最初から討死するつもりだったのでしょう。逃げる新田勢をそのまま追撃、化粧坂を攻める新田本隊の背後に回るかのような動きをして散々に戦い、今の鎌倉市寺分てらぶんあたりで自刃します(洲崎すざきの戦い)

守時さんの妹(登子)は足利尊氏(高氏)の正室だったので、そんなことから彼なりの負い目を感じていたのかもしれません。


さて。巨福呂坂の話が長くなりましたが、そろそろ次の目的地へ。
また鶴岡八幡宮の大賑わいの中へ戻らなければなりません。

よし、鶴岡八幡宮境内を横切って逆サイド回るか…。

ホントは横大路を通っていきたかったのですが、動けないほど人が多いだろうと予想して、鶴岡八幡宮の西側の入り口から境内へ・・・。

あ、しまった!
そっかぁ~、もう一本南の入り口から入るんだった~。じゃないと石段下の舞殿の脇にいけない!

わたくしめは本宮拝殿とおみくじ売り場がある一番人が多いと思われるところへ来てしまったのです・・・

ふ~ん・・・

はからずも、多くの人に混じって例の石段を下りることに。
仕方ない、自分だってみなさんと同じ鎌倉へ来た観光客の一人みたいなもんなんだし、ゆっくりいきましょ。とのんびりゆっくり。
(てか、八幡神、申し訳ございませぬ・・・。参拝もせずに御前を素通りしてしまいまして…次回必ずお参りさせていただきまする!初めてじゃ…こんなこと…)

あぁ、そういえばこの石段…。座ってこんな写真撮ったことあったっけ。

昔、自分が作った鎌倉のスライドショー動画よりスクショ。画質悪いです。もとの写真は消滅・・・

この時はまだ自分が平日休みの仕事をしていて、鎌倉にも近いとこに住んでたからなぁ…。平日朝行けば鶴岡八幡宮も静寂に包まれた良き境内なんですよ・・・。

あ、思い出に浸ってる場合じゃなくて、次の目的地は鶴岡八幡宮境内にあるこちらの石碑。

はい。鎌倉青年団の石碑、その9かな?「柳原やないはら」です。

これ、私は知らなくて、今回事前に下調べした時に知ったのですが、なんでもこのあたりは柳の名所で、一説にはあの北条泰時さん(今回登場2回目)が和歌を詠まれたそうなんです。

その和歌というのが、

年経たる 鶴岡辺の柳原 青みにけりな 春のしるしに

春の到来を歓ぶ御歌かと思いますが、もしこれが泰時さんの歌だったなら、柳を柳営りゅうえい(将軍の陣営、日本では将軍家の意味も)にかけて、ようやく頼朝以来の鎌倉政権が軌道に乗って、いよいよ発展するべき時が来たことを予感させる悦びを表現したものとも受け取れますね。


さて、鶴岡八幡宮境内を出ます。東鳥居をくぐって八幡宮の東側へ。
するとすぐにこちらの石碑があります。

はい~。鎌倉青年団の石碑、その10!「畠山重忠邸址
820年ほど前、ここに重忠さんがいたんですよ!!!!

なぞの興奮

もう畠山重忠はたけやましげたださんは武蔵国の武士団・秩父党ちちぶとうの武士にして鎌倉時代初期を代表する人物です。私の記事にもすでに何度かご登場いただいております。

この方については詳しくお話ししたいところですが、超絶長くなるのでさすがに今回は割愛します(笑)

ここに邸宅があったとするのは、『吾妻鏡』の正治しょうじ1年(1199年)5月7日条にある記述で、医師の丹波時長たんばときながが頼朝の次女・三幡姫(乙姫)の病気治療のために京都から関東へ下向してきた時のこととして、

最初亀谷の中原親能なかはらのちかよしの邸宅を宿所としていたが、(より御所に近い)畠山重忠の南御門の邸宅を宿所に変更した。

というのがあり、当時この石碑の辺には大倉御所おおくらごしょ(鎌倉殿〔頼朝・頼家・実朝のいわゆる源氏三代〕の御所)の南御門があったとされていることから、ここが重忠の邸宅跡と比定されているようです。


ということで、今回はここまでです。
次回は【雪ノ下・小町(鶴岡八幡宮周辺)エリア】の後編です
久しぶりに建造物が出てくるかな?(笑)

では、最後に今回のルートを・・・。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

⇒次記事


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