【治承・寿永の乱 vol.34】 東国追討使の派遣
頼朝の挙兵や甲斐源氏の挙兵といった東国の動乱が京都や福原の人々が知ることになるのは、遅くても9月初旬の頃と思われ、藤原(九条)兼実や藤原(中山)忠親といった当時の公家の日記にはそれぞれ東国の動乱についての記事が登場してきます。
(九条兼実 『玉葉』 治承4年9月3日条より)
”また伝え聞く、謀叛の賊は源義朝の子で、年来配流先の伊豆国におり、近頃凶悪なことをし、先ごろは(伊豆の)新国司が派遣した使者を踏みにじった(伊豆国は平時忠卿が知行する国である)。およそ伊豆・駿河両国を横領したという。また、源為義の息子がこの一、二年熊野の辺りに住んでいたが、去る5月の乱逆(以仁王の乱)の際に坂東へ下って、かの義朝の子に協力して大方謀叛を企てているようだ。まるで平将門のようであるという。”
(中山忠親 『山槐記』 治承4年9月4日条より)
”今日ある者が言うには、故義朝の男子兵衛佐頼朝が義兵を起こしたといい、伊豆国を略奪して坂東が騒動となっている。”
東国追討使の派遣を決定
他方、平家は相模国の大庭景親や上野国の新田義重など平家の家人となっていた坂東の武士や平家一門の知行国からの使者によって、京都の貴族より早くに頼朝や甲斐源氏の挙兵の報に接していたと思われ、これへの対応は素早いものがありました。
9月5日には東国追討使の派遣決定と東海道・東山道の諸国に頼朝の追討を命じる宣旨(官宣旨)が出され、続いて太政官符(太政官の審議を経て出される朝廷のもっとも正式な命令書)を発給する手続きに入っています。
その後も東国からの報せが京都や福原に随時入ってきて、頼朝が伊豆国を領し、甲斐の源氏が甲斐国を領したとされるなど事態はますます悪化してきている中で、坂東から吉報がもたらされました。
それは頼朝が去る8月23日に相模国の早河(早川)の辺りで大庭景親・伊東祐親らと合戦に及んだ結果、頼朝勢の多数が討ち取られ、頼朝自身は箱根山に逃げ籠もったというものでした(『山槐記』治承4年9月7日条)。
これにより平家もひとまず安心したのか、『玉葉』にも追討使の派遣が遅れる可能性があるかもしれないということが記されています(『玉葉』治承4年9月9日条)。
しかし、その後間もなく上総国の上総広常と下野国の足利忠綱が頼朝に味方し、事態はいよいよ大事に及んだという報せが京都に入ってきて(『玉葉』治承4年9月11日条)、これには一部誤報があったものの、いまだ頼朝を討ち取ったという報せが伝わってきていない上に、どうやら東国はまだ落着していないぞということで、一度東国の不穏な動きを封じるためにも予定通り東国追討使を派遣することとなりました。
派遣される東国追討使は大将軍(総大将)に平重盛(小松内府)の子である平維盛、それに平清盛の異母弟である平忠度、清盛の子とされる平知度を将とする三名が選出されて、これに平家の侍大将と言われる藤原忠清(伊藤忠清)らの平家家人が加わって事実上の平家本軍といった陣容となりました。
そして治承4年(1180年)9月22日。
東国追討使(平家本軍)は福原京を出発、翌23日に旧都・平安京に到着しました。
ところが、ここで追討使に早速トラブルが発生します。平維盛と藤原忠清との間で京都(平安京)を出発する日取りをめぐって言い争いが起こってしまったのです。
こういう揉め事や騒ぎの話が好きな中山忠親さんの『山槐記』によれば、忠清が十死一生日(※)を避けるべきと主張したのに対し、維盛は京都(平安京)は行軍途中の場所であるから、単にその日の吉凶を気にするべきとして、なかなか京都を出発できない事態となってしまったというのです。
現代人の私たちの感覚からすれば、いったい何を言い争っているんだ~?!と呆れてしまいますが、これは平家に限らず当時の人々はこういうことに大変神経を使ったので、凶日や忌み日はとても大事な問題だったのです。
結局、追討使が京都(平安京)を出発して東国へ進軍を開始したのは、到着から1週間近く経った9月29日のこと。このタイムロスが後々大きく響くことになります。
忠度の自信
ちなみに、この時東国追討使の将として選出された平忠度には、東国へ出発する際のこととして、このようなエピソードがあります(『平家物語』)。
忠度のことを深く愛している女性が、一首忠度に送りました。
東路の 草葉をわけむ 袖よりも たたぬたもとぞ 露けかりける
(東国への道の草葉を分けるあなたの袖よりも、都に残された私の袂こそ露に濡れたようにしっとりしています)
これに忠度は、
別れ路を なにかなげかむ こえて行く せきを昔の あとと思へば
(別れ路をなにを歎くことがありましょうか。これから越えていく関を昔通ったあとと思えば)
と返歌しました。この昔通ったあとというのは、かつて忠度の先祖である平貞盛が平将門を討つために東国へ下った故事を指しています。貞盛が将門を討つことができたように、我らも頼朝を滅ぼすことができるだろうといった忠度の自信のほどをこの歌で垣間見せているようです。
日に日に事態が悪化する東国
さて、東国追討使はいよいよ東国へ下りましたが、その間も関東の状況が京都(平安京)や福原に伝わってきていました。
(九条兼実『玉葉』より)
“また伝え聞く、関東のこと、すでに大変なことになっている。”
(中山忠親『山槐記』より)
“大理(検非違使別当の唐名:平時忠のこと)が仙洞御所(上皇の住まい)において示されて言うには、
「頼朝すでに頭弁(藤原(吉田)経房のことを指す)の知行国である安房国を掠め取ったことを頭弁に文書で知らせるとともに私は新院(高倉上皇)に奏上した。この事は注進の飛脚が伝えてきたものだ」
という。私はその注進の書状をお願いして見せてもらった。駿河国の住人が500余騎の軍勢で伊豆国を攻め、頼朝は一党を引いて箱根山に籠もったが、八月の晦日に箱根山を出て乗船し、夜半に安房国へ着いた。九月一日、頼朝は安房国の諸郡を分配し、頼朝に協力する者たちはそれぞれ人家を襲撃して、税として納められる物品を奪取したと。この注進の書状はこれらのことが詳しく書かれていた。”
こうして関東の様子が完全に正確ではないですが、上方でもだんだんわかってきて、事態はいよいよ深刻さを増してきていることが伝わっていました。そして都ではこのようなデマまで流布します。
(九条兼実『玉葉』より)
“伝え聞く、追討使が遠江国(今の静岡県西部)においてかの国の住人に射落とされたという。後に聞く、誤った説であると。”
追討使、駿河国に到着する
治承4年(1180年)10月13日(『吾妻鏡』)。
東国追討使(平家本軍)は駿河国手越宿に到着。ようやく東国の入り口と呼べる場所までやってきました。
途中の国々で駆武者と呼ばれる臨時召集された兵を加えながらの進軍であったため、京都(平安京)を出発してから2週間ほどの時間を要したものと思われます。
一方、東国追討使の進軍状況を掴んでいた甲斐源氏勢と頼朝勢(鎌倉源氏勢)は、それぞれ迎撃するべく行動を開始しました。
甲斐源氏勢は駿河国に向けて南下、鎌倉源氏勢はまず大庭景親ら石橋山にて敵対した勢力を掃討し、走湯権現(伊豆山権現)や箱根権現といった寺社に土地の寄進、保障をするなど、確実に足元を固めるようにしながら西進して駿河国へと向かいました。
(次回もう少し詳しくお話しします)
そして、いよいよ平家本軍と対峙する時が刻一刻と迫っていたのでした。
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