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【甲斐源氏 vol.2】 甲斐源氏のはじまり

源義清と清光父子の甲斐国土着

天承てんしょう1年(1131年)ごろ。源義清みなもとのよしきよ清光きよみつ父子は近隣勢力との対立から常陸国ひたちのくに那珂郡なかぐん武田郷たけだのごう(今の茨城県ひたちなか市武田)を追われ、甲斐国の市河庄いちかわのしょうに流されてしまいました。

市河庄では、義清が地元の武士である市川氏と婚姻関係を結び、その支援を受けて、徐々に勢力を伸ばしていきました。

また、中世史家の野口実先生や五味文彦先生は義清たちが甲斐へやってくる少し前の時期に甲斐の知行国主ちぎょうこくしゅ(※)が藤原長実ふじわらのながざねだったことも勢力拡大の一助になったとされています。

この藤原長実は、絶大な権力を握った白河法皇しらかわほうおう近臣きんしん(側近)として有名な藤原顕季ふじわらのあきすえが父親で、義清の父である源義光みなもとのよしみつ新羅三郎しんらさぶろう)はかつてこの顕季に仕えていました。そんなことから長実と義清もなんらかの繋がりをもっていたのかもしれません。

※知行国主…1国の知行権ちぎょうけん(支配権〔国司任命権など〕)を与えられ、その国からの収益を得ることを認められた人。院政期に流行。

義清の居館はどこ?

では、この頃の義清たちはどのように勢力を拡大させていったのでしょうか。もう少し詳しく調べてみようと思ったんですが、そこで根本的な問題にぶち当たってしまいました。

それは、肝心の義清たちがどこに住んでいたかはっきりしていない上に、配流されたとする市河庄についても、大体の場所は現在もかろうじて残っている「市川大門いちかわだいもん」という地名から推定できるものの、ではそれがどのくらいの大きさ(範囲)だったのかはっきりしていないのです。

チョット話がややこしくなりますが、今わかってることやわからない点をお話ししてみますと・・・。

まず義清たちが住んだ場所について。
今現在、この源義清の居館があったとされる場所は、山梨県内に2ヶ所あります。一つが中巨摩郡なかこまぐん昭和町西条さいじょうにある義清神社、もう一つが西八代郡にしやつしろぐん市川三郷町いちかわみさとちょう市川大門にある平塩岡ひらしおおかです。
(下の方に地図があります。良かったら参考にどうぞ^^)

こちらが昭和町西条の義清神社。

今は館の痕跡は残されていませんが、この神社の境内の南端から規模の小さな土塁状の遺構と土師器片が発掘されたそうなので、ここに何かしらの施設があったことは確かなようです。

また、この義清神社の北西100mほどのところに、義清塚と呼ばれる墳墓があって、そこに義清が眠っていると伝えられています。

そしてこちらが市川大門の平塩岡。

ここは岡というだけあって周囲に比べて小高くなっていて、現在は熊野神社があります。これはその稲荷神社境内にある甲斐源氏の記念碑。やはりこちらにも館の痕跡のようなものは一切見当たりませんで、住宅地とワイン用のブドウ畑が広がっているばかりでした。

一般的解釈だと最初に住んだのが市川大門の平塩岡で、義清の晩年に隠居所として住んだのが昭和町の義清神社付近だということと言われています(磯貝正義『甲斐源氏と武田信玄』)。


市河庄はどこ?

次に市河庄について。

義清の住んでいた場所が2ヶ所あるということは、市河庄はこの2つの地点を含む地域に広がっていたのではないかと考えられます。、下の地図だと薄い赤色で示した範囲です。

でも、そうするともう一つの問題が起ってしまうんです。

藤原宗忠ふじわらむねただ(1062~1141)が記した日記『中右記ちゅうゆうき』の保延ほうえん3年(1137年)4月1日条に、宗忠が甲斐国鎌田庄かまたのしょうを関白・藤原忠通ふじわらのただみちに寄進したという記事があるんですが、この時寄進された鎌田庄は今の義清神社のある昭和町や玉穂たまほ地区(旧・中巨摩郡玉穂町)一帯に広がっていたと考えられているんです。

保延3年(1137年)といえば、義清・清光父子が甲斐国へやってきてわずか6年後のことです。となると、鎌田庄は義清・清光が甲斐国へやってきた当時にも存在していた可能性が高く、市河庄の庄域と鎌田庄の庄域とが重なってしまいます。つまり、市河庄の庄域を見直す必要が出てきてしまうのです。

さらに、この鎌田庄の寄進に義清が関わっているのかなど、鎌田庄と義清との関係もわかっていないんです。

ほんとによくわかりません。。。

考えられる仮説

でも、これで終わってしまっては何の話にもなりませんので、自分で考えられる仮説を立ててみました。

  • 鎌田庄は市河庄を分割して立庄(分立)されたもので、源義清が権門である藤原忠通に藤原宗忠を介して寄進し、自分も鎌田庄内に居を移して庄園の保全を図った。

  • 鎌田庄は源義清が市川氏の援助も受けつつ新たに開発した庄園で、市河庄から鎌田庄に移り住んで、藤原宗忠を通じて摂関家の藤原忠通に寄進することでその荘園の管理者(庄官)となった。

私はこの鎌田庄の寄進に義清は関わっていると考えました。このあとの甲斐源氏の発展を思えば、甲府盆地中心部への進出はすでにこの頃から行われていたと考えられるからです。

でも、関わっていない線も考えてみました。

  • 市河庄の範囲は今の昭和町付近までは広がっておらず、市河三郷町付近が庄域だった。鎌田庄は市河庄と隣接した庄園で、他の人によって寄進されたものだったから当然これに義清は関わっていなかった。義清はあくまで市河庄に留まり、勢力拡大の機を待っていた。今現在伝わっている義清神社は義清の居館跡ではなく、鎌田庄の庄官の居館跡であった。

まぁ、本当に史料が乏しいだけにこのような仮説も立てられてしまうんですよね。

今の義清神社がある一帯に義清がいたという決定的な史料か考古資料が見つかれば、この辺の問題にも光が差してくると思うんですが、今のところ不明と言わざるを得ません。


ということで今回はここまでです。
また何やらモヤモヤしたような説明でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は甲斐源氏が発展するきっかけをお話ししたいと思います。それでは。


(参考)
山梨県 『山梨県史 通史編2 中世』 山梨日日新聞社 2007年
磯貝正義 『甲斐源氏と武田信玄』 岩田書院 2002年
西川広平 「甲斐源氏ー東国に成立したもう一つの「政権」ー」
(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』所収)清文堂出版 2014年
野口 実 『源氏と坂東武士』(歴史文化ライブラリー234) 吉川弘文館 2007年
芝辻俊六 『甲斐武田一族』 新人物往来社 2005年

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