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【駿河国・葛山城 vol.4】葛山城の東西の城域はどこまで?

今回は葛山かづらやま城の城域の西と東はどこまで?ということで、『日本城郭大系』の言う東郭・大手曲輪・西郭などを探るべく、、東二重堀切のさらに東側、西二重堀切のさらに西側を紹介してみたいと思います。
それと、葛山氏の平時の居館だった「葛山館」も付け足しでご紹介したいと思います。前回vol.3はこちらから。


東郭と南郭

葛山城は東西の二重堀切によって仕切られた区画が城域であるとみなされていますが、『日本城郭大系』では東西の二重堀切の外側にも曲輪があったと説明しています。

それが東郭、南郭、大手曲輪、西郭などといった曲輪です。しかし、これらの曲輪は曲輪であったと明確に示せる痕跡に乏しく、土地の様子も後世の改変によるものと見分けがつかない状態となっています。

東郭とされる場所1
東郭とされる場所2(東から撮影)

 『日本城郭大系』によれば、東郭は東二重堀切の東に位置して、幅14mほどの尾根上に設けられ、東に70mほど緩傾斜しているとあります。しかし、かつてここを自動車が通ったような轍が残り(今もたまに通るのかな…?)、周囲にも削平されたような場所が散見され、また土塁らしき遺構も確認できないため、ここが曲輪であったかどうか判別がしにくくなっています。

南郭と思われる場所

東郭を尾根筋に沿ってさらに東へ下っていくと、右手に自然地形ではないような場所があります。『日本城郭大系』にも、

(東郭を)20m余下ると、幅6~8m、長さ3~4m、一部に土塁(幅1.2m、長さ9m、高さ1.5m)を設けた南郭を右手に見る

とあって、おそらくここがその南曲輪ではないかと思われますが、案内板などはなく、ここが曲輪であったのか定かではありません。
(まぁ、確かに土塁に囲まれているように見えなくもないですね・・・)

大手曲輪

大手曲輪とされる場所

大手曲輪は葛山城のある愛宕山の最東端に尾根上の削平されたようなところがあり、そこが曲輪推定地とされています。しかし、ここもやはり周囲に土塁などは見当たらなく、遺構と呼べるようなものはありませんでした。『日本城郭大系』によれば幅25m、長さ50mの曲輪とされています。

葛山城入口(大手口)

また、この大手曲輪を東に下ったところが大手口とされています。
ここも城の入り口を思わせるような遺構はまったくなく、わずかに地形の起伏が認められる程度です。

ちなみに、大手口の前はもう市道で、葛山城がある愛宕山を下りきった場所になるので、こちらからも葛山城跡へ行けます。

ただ、大手口は尾根道をだらだら上っていく感じになり、城跡まで距離もあります。一方、仙年寺裏から行くルートは最初やや上りがきついかもですが、すぐに城跡へ行けますし、それに仙年寺駐車場やトイレを利用できるので、仙年寺裏からの登城をおすすめします。

西郭

西郭とされる場所
残念なことになってる西郭の立札(;_;)

西郭は西二重堀切(6号堀)のすぐ西にある尾根上の削平された部分を指していますが、やはりここも曲輪であったことを示す遺構は認められませんでした。

しかし、『日本城郭大系』ではこの曲輪を長さ64m、幅10mと計測していて、西曲輪の先端に幅2m、長さ6mあまりの堀切跡が認められるため、ここが曲輪であったと説明しています(堀切跡もはっきりわかりませんでした)。

西郭のすぐ西にある浅い窪地
(ここが堀切?とてもわかりづらいです・・・。写真だとなおさら。自然地形にも見えます)

水の手

水の手
水の手から流れる小川

西郭から西へ尾根筋を下り、途中でやや北西寄りにさらに下って行ったところに水の手と呼ばれる場所があります。小さな沢ですが、少量の水が流れています。

山城にとって水は生命線とも言えるべきもので、あの山中城も何ヶ所も水の手を作って水源の確保に努めていたことからもその重要性がわかります。
山中城vol.2山中城vol.4をご覧ください)

ですが、この葛山城には水の手と呼べるような場所がこれまで巡ってきたところにはありませんでした。しかしここでようやく水源を見つけました。ただ、主郭からやや離れた所にあるのが気になります。

往時はどのように水の確保をしていたのかわかりませんが、この小川の水は方向的に一の郭や二の郭北側の急斜面を下ったところへ流れていると思われるので、ここではなく、もう少し下流で水を汲むことになっていたのかもしれませんね。

葛山氏館跡

さて、葛山城レポの最後は葛山氏が平時の居館としていた「葛山館跡」です。一気に写真を貼り付けます。

葛山氏館跡
葛山氏館跡を北側土塁上から
葛山館北側土塁
葛山館西側土塁
葛山館門址(館跡西側)
葛山館西側水堀跡?(門址を出たところ)

葛山氏館は平安末期~戦国末期にかけて駿河国東部(駿東地域)を主な勢力圏とした葛山氏の平時の居館で、葛山城から南東に400mほどの所にあります。

葛山氏館は四方を土塁で囲まれた単郭式の方形館で、鎌倉時代に多くみられた武士の館の形状を残していますが、現在残る遺構は土塁と虎口(門址)のみで、かつては四方の土塁の外側に廻らされていたと思われる水堀の跡の可能性がうかがえるのは西側のみとなっています。なお、館の南側は大久保川が流れていて、急峻な崖になっており、天然の堀のようになっているため、最初から堀はなかったのかもしれません。

現地解説板によれば、葛山氏館は東西約97m、南北約104mで約10000㎡の広さを持っており、土塁の大きさは馬踏ばふみ(※)幅約1.2m、高さ3.5m、底敷幅約10mもあったといい、館の門は館の西側南寄りにある開口部にあったといいます。

※馬踏・・・土塁の上辺で平らになっているところ

なお、この葛山館に隣接する場所に葛山氏の重臣であったとされる半田・荻野両家の館があり、半田屋敷北側には今も土塁跡が残されているといいます。(この土塁は確認できませんでした)

ともあれ、もしこれら重臣たちの館が葛山氏館と一体となっていた場合は、葛山館が単郭式ではなく複郭複濠式の形式の館になっていた可能性があります。 


ということで、これで葛山城のレポは終了です。
これまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

この葛山城はあまり知られていない存在の城かもしれませんが、地元有志の方々のおかげで見学しやすくなっており、かつ遺構も比較的良好な状態なので見所は多いと思います。ぜひ一度来てみてください。

それでは。

葛山館跡から葛山城跡をのぞむ

(参考)
平井聖[ほか]編『日本城郭大系 第9巻 静岡・愛知・岐阜』新人物往来社 1979年
加藤理三・中井均編『静岡の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版 2009年
裾野市史編纂専門委員会編『裾野市史 第八巻 通史編Ⅰ』裾野市 2000年
小和田哲男『静岡県の城物語』静岡新聞社 1989年

ほか

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