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易は難にして 難は易なり

 果たして難易度というものは一体どこの誰が決めているのだろうということを考えはじめると、これもまた私が酒の栓を抜く手を進める要因になる。世間には「簡単である」ことの喩えとして「朝飯前」なる表現がある。言い得て妙だとは思う。だがしかし私にとって朝飯を食べることほど難しいことはない。朝の忙しい時間のどこに朝飯を食う余裕などがあるのだろうか。24時間を1日とした時の正午頃までを朝と定義するのであれば私にもできるやもしれないが、いわゆる朝という時間に飯を食うことの難易度は私にとってはほとんど最高点に達し、炎天下で42.195km走り抜くほど難しい。昨年の3月に大学を卒業して会社勤めになってからというもの朝飯を朝のうちにしっかりと食べたことなど片手で数えられる程度しかないのである。しかし今回の話題はきちんとした生活習慣を重要視する紳士である私が頗る朝に弱いことを露呈するものではなければ、健康な私が朝は貧血気味で食欲がないなどと日本男児にあるべからざる弱音を吐くものでもない。ただただ朝飯前という不適切な表現に苦言を呈したいだけなのである。

 私はそもそも朝飯前という言葉が本当に“極めて簡単である”ことを表現する言葉であるのかさえ信じ難くなり字引を開いてみた。しかしそこには確かにこうあった。(三省堂 大辞林 第三版)

① 朝飯を食べる前。
② 〔朝飯を食べる前の一仕事で仕上げられることから〕 きわめて簡単なこと。非常に容易なこと。

 朝飯を食うことのどこが非常に容易なことなのかとぶつくさと言いながら字引を閉じた。そして同時にどんな表現だったら万人が納得する非常に容易なことの喩えになるのかを考えてみた。

 まずは自分に当てはめて考えてみる。私がいとも簡単にやってのけることと言ったら即座に思いついたのは【靴を履くこと】【口笛を吹くこと】【そして酒を飲むこと】だ。【靴を履くこと】を思いついた時は自分は天才かと錯覚した。これほど誰にでもできて容易なことはないと。字引を出版している会社に電話さえしようとした。しかしよくよく考えてみると生まれたての赤子にとって靴を履くことは容易ではないしそもそも靴を履く必要すらない。力士は自分で靴を履けるのだろうか。少し不安になったためこの表現は不適切だと認定した。

 次に【口笛を吹くこと】だ。これこそ私にしてみたら朝飯前の行為である。私は口笛を吹くことが一般人よりも幾分達者だ。息を吐きながらでも吸いながらでも音が出せるためやろうと思えば永遠に吹いていられる。こんなものまだ字も読めぬ幼稚園児でもできるだろう。これぞまさに字引に新たに掲載されるべき名フレーズだと確信し、いざ三省堂の電話番号を調べたところで私の恋人が口笛を吹くことができないことを思い出した。彼女は幼少期に、周りの園児が次々と口笛を吹く中一人だけ音をだすことができずにいたことを恥と思い、自分も仲間だと主張すべく口で「ぴーぴー」と言っていたという到底真実とは思えない逸話を語ってきたことがある。私はこれを聞いたときに抱腹絶倒した。そんなことがあるものかと。しかし我に返り「本当に吹けないのか」と問うと口で「ぴー」と言った。本当に吹けなかったのだ。よって【口笛を吹くよりも簡単だ】は朝飯前と同様不適切な表現に認定せざるを得ない。【酒を飲むこと】に関しては論ずるまでもなく未成年にしてみたら大犯罪行為だ。酒は脳を溶かす。これは決して簡単なことの代名詞になってはならないと将来有望な少年少女たちの未来を想い却下とする。

 そのほかにも様々な候補を出した。【金持ちを妬むほど簡単だ】金持ちは金持ちに嫉妬などしないだろうから万人に共通はしない。【呼吸の如し】呼吸は難易の問題ではない。せねば死ぬ。簡単なことの表現には向かない。【Twitterを開き更新されないタイムラインにため息をつきInstagramを開いて一通りストーリーズを垂れ流した後無意識にTwitterに戻り先ほど診終えたことに再び気づきインスタグラム を開く】長すぎる。語呂が悪い。というよりこれはただの徒労である。

 こうなると幾分難しくなってきた。私にとっては簡単な事を難とする者があり、字引に乗る程の簡単な行為を難とする私のようなものもあるのだ。【朝飯前】が果たして最適な表現なのだろうか。私は世の誰もが簡単にやってのける行為を世界でたった一人簡単にやってのけることのできない愚者なのであろうか。悔しくなってきた。

 世界でたった一人という表現が最適かどうかはわからない。何しろ私が得意とする英国の言葉では朝飯前のことを”Piece of cake”というからだ。直訳するとケーキひと切れ。要するに簡単にパクリと食べ切れてしまうほど簡単だということだろう。稀代の甘党である私にとってこの表現は最適だ。非常に的を射ている。大きな栗の乗ったモンブランだとなおのこと良い。だがあえて反論するならば世界中を探してみればケーキ嫌いの人もいないことはないはずだ。ピースオブケイクすら拒絶する人にとってこの表現は適切ではない。

 私が趣味で嗜んでいる仏語では”C'est un jeu d'enfant”と言う。直訳すると”子どもの遊び”である。しかし近頃の子供の遊びときたらどうだ。広場を奪われた子どもたちは家に引きこもり、鉄の塊の中に映るキャラクターを動かして相手の命を削ったり、外に出たらいくらでもいる虫や魚をわざわざ小さな小さな画面の中に開発した森の中で捕っては自慢しているではないか。子どもの遊びが指すものが何なのかはわからないがゲーム嫌いの私にとってこの表現もまた適切ではない。何しろこの表現には幾分棘がある。例えば数学が得意な者に
「おいそこの君、3 以上の自然数 n についてxn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しないという理論について少し説明してくれないか」と尋ね、

「そんなものは子供の遊びだ」

などと答えられたらたまったものではない。「どこが子どもの遊びなんだ馬鹿野郎」と殴り合いになるに違いない。非常な危険要素を持ち合わせた表現である。

 ここ数日【朝飯前】に変わる言葉を探し続けて何も手につかぬ状態になっていることは言うまでもない。今日に至るまでに、いっそこんな表現を無くしてしまい、どれほど簡単なことでも誰かにとってそれは難しいことであり、反対にどれだけ君がそれを難しいと感じようが簡単にそれをやってのける人だっているということを国連かどこかでスピーチすれば世界がとてつもなく平和になるのではないかとすら考えた。そんな優しい世界が来ればいいと願ったのは束の間やはり朝飯前が気に食わなくなってきた。

 そこで私は読者諸君に問いたい。そんなものを考えるのは朝飯前だという者。代替表現を共に考えて欲しい。そして我々の字引に刻もうではないか。朝飯前が朝飯前ではなく、肩身の狭い思いをしている同士のために。もしも君の表現が私の腑に落ちたなら、私は三文の得と呼ばれる早起きをして君とモーニングに出かけよう。そしてそこの勘定は私が持とう。金を出させて悪いって?そんなもの赤子の手をひねるようなものだ気にすることはない。

2020年5月29日
鴨川デルタにて


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