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親ガチャに外れるということ

「親ガチャ」という言葉が良くない言葉としてテレビ等で報道されていたり、SNSで発信されている。

テレビで見る「親ガチャ」に外れたと言う人は
「俺の親、金持ちじゃないから親ガチャ外れたわー」
「私の親は鼻が低いので親ガチャに外れました」
などと言っている。

私も親ガチャに外れたと思っているが、上記の意見には賛同できない。
なぜなら「親ガチャ」に外れたということはどう足掻いても一生不幸を背負って生きていかないといけないからだ。

そんな親ガチャに外れた私の幼少期から小学校までのエピソードを書きたいと思う。

幼少期

実際生まれた場所はどこだか覚えていないけれど、主に兵庫県の田舎で育った。(神戸とかではない)
父は自衛官で家にいない日が多く、母と過ごす時間が必然的に多かった。
幼少期の記憶は断片的にしか残っていないが、覚えていることはこの人は外では良い母親でありたいのだと思ったこと。

例えばスーパーに買い物に行ったときポケモンのフィギュア付きのお菓子等をねだったりした。
機嫌の良いときは買ってくれるが買ってくれないこともあった。買ってくれないときは家に帰った途端とても機嫌が悪くなる。「スーパーで買って買ってって言わないの!!」とめちゃくちゃ怒られることがしばしばあった。
ひどい日には掃除機等の物で叩かれたり、ベランダに出されたりしていた。
当時は母が絶対であり、歯向かう力もないので母の機嫌を損なわないように努力するようになった。

他にもまだ幼稚園に入園する前だったので外の道や階段で転けたりすることもあったし転けたら泣いていた。
すると母は外では「泣かないで〜」となだめていたが、帰宅すると同時に機嫌が悪くなり「外で泣いてみっともない!!」などとヒステリックな状態になる。叩かれたりもしていた。そこから転けても泣かないように堪えるようになった。
母の機嫌を損ねることは自分の生命に関わることだと幼いながらに理解したからだ。

そして今ではそんな私の幼少期を母は「物欲のない子だったわ〜」「転けても泣かない子だった」などと誇らしげに振り返る。
全て動物として人間として自身の生命を守るために我慢したことなのに。

幼稚園

幼稚園の記憶も断片的だ。
最初は私立の幼稚園に入園したが、すぐ辞める手続きをしていた。
私立の幼稚園で何をしたのか全く覚えていない。
カウンセラーさん曰く、身体が本能的に思い出したくない記憶の可能性があるそうだ。

そして私立の幼稚園から公立の幼稚園に転園した。
公立の幼稚園での思い出はしっかりある。
なぜか「全員と友達になる」という信念で日々過ごしていた。
なので色んな人をを蹴りまくる子とも仲良くしようと近づき蹴られていた。
性違和を本格的に感じだしたのもこの頃だった。
でも毎日楽しかった。家に帰るまでは。

家に帰るとマンションの上の階の人がうるさいとかマンションに住んでいる人の悪口を聞くことが日課になった。
晩ご飯も父が帰ってこないときはインスタントラーメンだった。
だから父が帰ってくる日はカレーとかきちんとしたものが食べれると内心喜んでいたのを覚えている。

小学校

小学校は幼稚園の友達の半分以上が学区の違いで別の小学校に入学した。
私は1からのスタートとなった。
友達作るぞと意気込んではいたけれど、クラスに入ってみると「○○ちゃん、○○くん、久しぶりー!」という会話ばかりで会話に入ることもできずに昼休みは1人で運動場にあるタイヤ遊具の上をひたすら往復していた。
そして家に帰るといつものマンションの住人の悪口を聞かされたり、喘息になるぐらい空気がここは汚いという話を聞かされたりしていた。

そしてある日、給食の時間になると吐き気がするようになった。
トイレに行ってえずいていたりしていた。
しかし、クラスの担任の先生は「給食は残さず食べなさい」という先生だったので昼休みもずっと先生に見張られながら吐き気と格闘していた。
見かねた先生は連絡帳にとても長文の不満を書いて「絶対見せるんよ」と渡してきた。
しかし、幼少期からの経験で「これを母に見せると死ぬ」と思い衝動的に先生の書いた鉛筆の文字を消しゴムで消していた。
紙が破れるくらいの勢いで消していたので先生に気づかれて母に直接連絡をされた。
その後すぐに転校だったけれど、転校に至るまでの過程を覚えていない。

多分この頃からうつ病だったのだと思う。

そして同じ兵庫県の団地に引っ越して、転校生となった。
転校生はやはり奇異な目で見られるし、いじめるには恰好の的だったのだろう。
男子とよく遊んでいたのだがクラスの中でヒエラルキーの高い女子が好意を持っていた男子と遊んでいたみたいで、派手ではないが女子からのいじめが始まった。
学校に通っているとどうしても好きな女子同士で二人組になるというシチュエーションがある。
体育のときにそういうことがあり、女子はみんな私を避けた。
思い切って声をかけると「お前色ペン持ってないやん。服も地味やしそういうやつ嫌いやねん」とか色々罵声を浴びせられたことを覚えている。
結局先生と二人組になって事なきを得たけれど、それから男子とあまり関わらないでおこうと思ったし流行りを追いかけるようになった。

家では当然いじめっぽいことがあることは言えないし、聞いてもこなかった。ただ耐えていた。
そして団地ということもあってご近所付き合いが発生し母は「あそこの子の母親は口が悪い。子供も口が悪いから遊ばんときや」と私の友達との交流にまで介入するようになっていた。上の人がうるさいのはどこに引っ越しても同じらしく、ほうきで天井を叩いたりして上の人と1人戦っていた。
ある夏の日、団地の友達から水鉄砲で遊ぼうという誘いを受けて水鉄砲で遊んだことのなかった私は両親ともに反対されたが嘘をついて外に出て友達の水鉄砲を借りて参加していた。
団地の子どもたちみんなで水のかけあいをしていて楽しかったけれど、その様子を両親は結構遠くのベランダから見ていた。
帰ってからはこっぴどく怒られた。「何で友達と楽しく遊んだらだめなんだろう?みんな怒られず遊んでいるのに。」と思い始めたのはこの頃からだった。
外で遊ぶと怒られるので、ポケモン金銀にハマっていた。
しかし、私はゲームをやり始めると止まらないタイプなので1ヶ月ぐらいでゲームボーイカラーは没収された。
そして母の団地に住む人達や友達のお母さんへの文句や侮辱、日々のニュースについての意見や文句を聞き、母の機嫌をとる日々を過ごした。

小学3年生の冬頃に家を買ったので引っ越しをすることになった。
また同じ兵庫県だった。しかも山の上でめちゃくちゃ田舎だ。
でも両親にとっては念願のマイホームであり、そのマイホームは抽選で当たったマイホームだったためとても機嫌が良かったことを覚えている。
しかし、私は二度目の転校生となる。しかも小学3年ぐらいだとグループなどが既に形成されている時期だ。「心して生きなきゃいけない」という心意気だった。
男子とは極力話さず、女子の友達を増やそうと頑張っていた記憶がある。性違和はあれど関係ない。いかにはみ出さないかを考えていた。
すると仲の良い子が増えてきて遊ぶ約束をした。内心「やった!!」という気持ちだった。
でも母に伝えると怒りだし、外に出ることが困難になった。
なおかつ当時は携帯なんて持っていない。焦っているとインターホンが鳴った。仲の良い子達が私が約束の時間に来ないので家のインターホンを鳴らしたのだ。すると母は小窓を開けて「娘はいません!!帰って!!」と怒鳴った。泣きたかったけど泣けなかった。
明日どうしようという気持ちに駆られながら無の気持ちで壁を見ていた。
その後は友達と遊ぶにも「1丁目以内で遊ぶならいい」などと言われた。そして友達を家に呼ぶのも友達の家にあがるのも禁じられていた。

次第に私の母親はやばいという噂が回るようになった。
小窓を開けて怒鳴ったことの他に、犬を飼っていたのだが散歩中に犬を蹴る姿が目撃されていたり、近所の同級生に対してよくわからない注意をしたりしていたからだ。
当然だが私たちの家族はやばいという認識になってしまった。
なので全然話したことのない同級生から嫌われることもしばしばあった。
私の居場所がだんだんなくなっていくことがわかった。
このあたりからだろうか、2年に1回また給食の時間になると吐き気がするようになった。母は病院に連れて行くということはなく「うえうえ病やよ」と意味のわからないことを言った。

正直、生まれて物心ついた頃からリラックスをしたりする場所がなかった。
学校では友達を作るのに必死で家では母の機嫌をとるのに必死。
気が狂いそうで心が壊れていくのを感じていた。

最後に

今回は幼少期から小学校までを振り返ってみた。
今思い返すと本当にしんどかったなと思う。
でももっとひどい環境で生まれ育った人もいると思う。
なんでこんな恵まれた環境で育ったのに親ガチャに外れたとか言ってるんだ?と思う人もいると思う。

でも私は胸を張って「親ガチャに外れた」と言いたい。

そしてアダルトチルドレンであることや不安障害であること、うつ病であることを笑い事にしたい。
どう足掻いても状況は変わらないし親を変えることはできないし過去に戻って死産することはできないのだから。

そして「親ガチャ」という言葉が一概に悪い言葉ではないということも主張したい。
今この時にもしんどい思いをしている子供達がいる。そういう子供達が将来笑い事にできる言葉であってほしいし、親ガチャに外れたと言われない子育てをする大人が増えてほしいからだ。
生まれた環境や顔のパーツや遺伝的なものは仕方がないけれど、育て方は変えることができる。
1人でも多くの子供が安心して幸せに育ち「私は親ガチャ当たり!」と言う人が増えることを願うばかりだ。

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