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言語&法&貨幣

言語・法・貨幣と「人文科学」

6 自由と危機(2008・6・10)

 言語と法と貨幣は、「自由」の条件である。
 言語も法も貨幣も、まさに自己循環論法の産物であることによって、物理的性質にも遺伝子情報にも血縁地縁にも還元されない意味や権利や価値となり、歴史の中で人から人へ受け渡され、社会の中に蓄積されてきた。
 ひとたび人間が言語を媒介として意思を伝達しあう社会の中に生まれると、その言語を内面化するようになる。
それは、個々の人間の脳の中に自律した意味の宇宙を作り上げ、物理的世界の構造にも生得本能の命令にも小集団内の秩序にも制約されずに、思考し、判断し、意思決定する自由を与える。
 ひとたび人間が法の支配の下に入ると、人間同士の関係は権利と義務の関係になる。
それは、個々の人間の他人の権利が及ばない権利の領域を与え、他人と共存しながら自己の目的を追求する自由を与える。
 ひとたび人間が貨幣を受けいれると、交換関係は貨幣を介した売買関係になる。
それは個々の人間に価値それ自体を貨幣という持ち運び可能な形で与え、時と処と相手を問わずどんなモノでも交換しうる自由を与える。
「自由」こそ、人間の本性である。その意味で、言語と法と貨幣はまさに「人間の本性」そのものを形作っているといえるのである。
 だが、個人の「自由」の可能性は、同時に、人間社会に「危機」の可能性ももたらす。
なぜならば、言語や法や貨幣を支える自己循環論法は、まさに物理的にも遺伝子情報にも血縁地縁にも根拠をもっていないことによって、しばしば自己目的化したり。自己崩壊したりするからである。
 ファシズムとは指導者の言葉に大衆が熱狂することであり、ポピュリズムとは大衆の言葉しか指導者が語らないことである。
官僚主義とは法それ自体が物心化されることであり、全体主義とは法がイデオロギーの手段でしかなくなることである。
恐慌とは人がモノより貨幣を欲することであり、ハイパーインフレーションとは人が貨幣から逃走することである。
 人文科学が、自然科学や生命科学と同じ科学としての資格を備えているとしたら、それは言語と法と貨幣という社会的な実体を対象としているからである。
それが人間の科学という名にふさわしい科学であるとしたら、それは物理的実体としての人間でも生命物質としての人間でもなく、言語や法や貨幣によって個人における自由の可能性と社会における危機の可能性を同時に与えられた、真の意味での「人間」を扱う科学であるからである。

以上、7回にわたるシリーズにお付き合いいただきまして感謝申し上げます。
2008年当時、日経新聞で、『やさしい経済学 21世紀と文明』
という題で、東京大学教授 岩井克人 さんが投稿された記事を私が記録していたものです。
「経済学」という物差しでは測れない「人間哲学」というようなスケールのアプローチだと私は思っています。
言語・法・貨幣と如何に上手にお付き合いできるのか、その人の人生の価値を左右するものだと思います。
いつの時代でも妥当する価値を希求しながら日々研鑽されることを願ってこのシリーズの紹介を終わらせていただきます(感謝)。


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