見出し画像

真木和泉の墓~「賊徒」から「殉国烈士」へ~

「水天宮」というと東京の人は「地下鉄半蔵門線の水天宮前駅でしょ」というかもしれないが、東京の水天宮はもともと久留米藩邸内にあった神宮で、福岡の久留米の本社から分祠されたものである。本社の水天宮はJR久留米駅の水天宮口から徒歩数分の筑後川のほとりにある。


久留米市の水天宮(光山撮影)

水天宮は壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇とその母・高倉平中宮たいらのちゅうぐうをその女官が祀ったことが始まりとされ、平知盛とももりの孫である平右忠すけただの子孫が代々宮司を務めている。第22代宮司が真木和泉まきいずみである。


水天宮にある真木和泉の銅像(光山撮影)

久留米藩の由緒正しい宮司が幕末、尊王攘夷の活動家として行動し、最後は京都・天王山山腹(山頂とも)で爆死(自刃とも)して果てるというから、昔から不思議な人だなあと思っていた。ちなみに私の本籍は久留米であり、天王山の麓にも住んでいたから縁があるといえばある。

平和な現代でこそ不思議に思うのであって、よくよく考えたら神職の真木和泉が尊王攘夷の思想を持ったのも当然といえば当然である。
真木は若き日は神道・国学・歌学の教えを受けた。ただ、吉田洋一氏によると、久留米藩の儒家・樺島石梁せきりょうとの関係が指摘されており、儒学の影響も無視できない。樺島石梁は楠木正成とその息子の惜別の画を描いており、真木和泉がのちに「今楠公」と呼ばれたのは、本人もそう望んだからかもしれない。天命と忠義の精神を若くして叩き込まれたのだろう。真木和泉は水戸に遊学し水戸学を学び、ガチガチの尊王攘夷派になった。

もっとも、真木和泉ら「天保学連」は久留米藩の幕政改革にも大きく貢献する。ところが政争に敗れ、「嘉永の大獄」によってなんと10年間幽閉される。真木はその間「山梔窩くちなしのや」という小屋を建て、倒幕の思想を固めていくとともに門下生を育てていく。

水天宮境内にある山梔窩の模型

島津久光の上京を聞き、脱出して京に行くが、島津久光が薩摩藩尊攘派を鎮撫する「寺田屋事件」に巻き込まれ拘置、赦免されるが幽閉を繰り返す。
公武合体派が尊攘派を京都から一掃した八月十八日の政変によって、久留米藩は「公武一和」を表明、一方尊攘派である真木和泉は「禁門の変」に参戦し敗北、最後は天王山までたどり着くが、新選組の追撃を受けてか、あるいは「京都を離れるのは忍びない」と考えたのかわからないが、真木和泉とその部下あわせて17人は、天王山で自死することになる。


天王山山頂から京都方面を望む(光山撮影)

ここまでは、まあ聞いたことのある人もいるかもしれない。私が興味を持ったのは、その後の墓のありかである。幕府側は彼らの墓を、天王山の麓・宝積寺に建て、「長州賊徒の墓」とした。しかし参拝者が絶えず、幕府側は倒幕の志士が崇められるのを恐れて、京都市中の竹やぶに捨ててしまった。ところが、真木和泉の死後わずか4年で明治維新となり、今度は「殉国十七烈士」として宝積寺には石碑が、天王山山腹には立派な墓が建てられることになった。

天王山山頂付近にある十七烈士の墓

いいたいのは、一つはありきたりな話である。「歴史は勝者のもの」という好例であり、討幕軍の隊長として死に、「賊徒」となったあげくに墓を竹やぶに捨てられた真木和泉が、4年後には「殉国の烈士」となり、贈正四位となっている。
もう一つは、敵を野に放てばそれはそれで恐ろしいことになるということである。真木和泉は文字通り竹やぶに捨てられたが、かえって京都の人々の同情と崇拝の対象となってしまった。比較にはならないかもしれないが、のちに野に下った西郷隆盛や江藤新平らが、結局は大久保利通ら政権を大いに悩ませることになる。「賊徒」西郷は死んだが、死後十数年で名誉回復が行われ、贈正三位となった。敵も大切にしないと大変なのである。

最後にまた真木和泉のこと。もし真木和泉が明治維新まで生き残ったとしても、近代欽定国家を目指す新政府とは折り合いがつかなかっただろう。真木の方針は天皇自らが西国諸藩に詔を発して親政を行い、江戸城に親王、大坂に新都を置くというものだった。確かに倒幕の指針にはなったと思うが、尊王攘夷に凝り固まった真木の思想は西郷や大久保と相合わないはずである。実際彼の門下は明治政府に久留米藩難事件と呼ばれる反乱を起こすことになる。

参考文献

アクロス福岡文化誌編纂委員会『福岡県の幕末維新』
川添昭二など『福岡県の歴史』
水天宮の説明標とホームページ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?