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2008年の香港の話

海外音痴による旅行記

私は英語が全く話せず、旅に求められる機転や地理勘みたいなものも皆無なので、海外旅行はもちろん好きだが、極度に苦手である。フランス、ドイツ、イギリス、香港、グアムに行ったことがあるが、詐欺に遭いそうになったり、行き倒れと勘違いされて警察を出動させてしまったり、インターネットカフェを探しに夜中に街を徘徊したり、ジャケットを脱ぐところをチケットを渡してしまって空港の検査官に笑われたりとなかなかの珍道中を繰り広げている。
今回は思い立って、2008年4月28日から5月1日まで行った、香港の話をしようと思う。もう14年も前の話であり、当時を語ることも「歴史」だと思うからだ。

夜中まで続く熱気と活気

香港には遊びに行ったのではなく印刷業界の記者として取材に行った。本当に謙遜でもなく英語が全く話せず、「The TV doesn't work(テレビが壊れています)」とかのフレーズ集を丸暗記して香港国際空港に降り立った。
香港は1997年に中国に返還されていたが、一国二制度はまあきっちり守られており、安全上の不安もまったく感じなかった。それでも空港からの地下鉄で機関銃を担いだ兵隊と居合わせ、さすがに異国の地に来たなとは思った。
香港国際空港近くのまあいいホテルに泊まった。ところが部屋に入ってTVを着けようとすると、付かない。本当に冗談ではなく、「The TV doesn't work」というフレーズを使うことになった。フロントはもちろん英語ができたが、修理に来た中国の方は広東語しかしゃべれず、身振り手振りでテレビを修理してもらったことを覚えている。
さっそく遊びに市街地の九龍にまで行ったが、電車で25分ほどで、驚くべき近さだった。香港は狭いのである。九龍で吉野家に入るところが度胸のないところだが、キムチが付いていたり強烈な薬味の味がしたりとそれなりに新鮮だった。勘と経験で船で香港島にわたり、ウォン・カーワァイ監督の映画『恋する惑星』でも有名な世界一長いエスカレーターに20数分乗ったところ、香港島の住宅街に迷い込んでしまった。


香港島のヒルサイド・エスカレーター(Wikipedia)

夜中の22時くらいだったと思う。ところが、真っ暗な町を歩いてもまったく身の不安を感じることもなく、坂道を降りたら無事繁華街に舞い戻った。あの時のまばゆい街の輝きと人々の雑踏はなかなか忘れられない。本当にカーウァイ監督の映画の世界のようで、南国アジアの熱気と、若者たちのエネルギーを感じた。居酒屋から本屋まで人々がたむろしているし、電車に乗ったらもう深夜なのにも関わらず子供たちが車内で走り回っていた。車内では誰もが携帯電話を取り出し大声で話していた。日本のように秩序とは守られなくても、人々は生き生きとしていた。こんな夜中まで。

グローバル・スタンダードになっていた中国製品

次の日に通訳の女性と落ち合い、印刷会社ビジネス交流展である「香港国際印刷包装展」の会場であるアジアワールドエキスポへ向かった。
香港の印刷業界について短く。香港の勢いは中国領となっても目覚ましく、印刷物の輸出額は過去3年で39.2%伸びていた。当時はまだ中国は製造業が主体のイメージだったが、香港の奥の深圳が世界的な工場集積地になっており、国際都市・香港に本社がある印刷会社が、深圳に大規模な生産工場を持っており、香港・深圳は「世界の印刷工場」の役割をすでに担っていた。当時の中国製品はまだ「安かろう、悪かろう」のイメージの名残りがあったが、実際はすでにグローバルスタンダードの品質になっていた。ヨーロッパの高級自動車のカタログや高級チョコレートの貼箱なども、すでに香港・深圳で生産されていたのである(そのうえ労働集約的な仕事や手作業も得意であった)。日本はまだ安穏としていたように、今になっては思う。


ゴディバの貼箱(Wikipedia)

日本が嫌いな日本語通訳

通訳の趙さん(仮名)とは、すぐに打ち解けた。流ちょうな日本語を話し、印刷用語すらも熟知しているキャリア・ウーマンである。ところが彼女、「日本人は大嫌い」だそうである。たまたま日本の青山学院大学に無償で入学できる枠があって留学しただけで、日本は嫌い。日本の新聞を読んでいると、家庭内での殺人事件など殺伐としており、幸せな国とは思えない、などとはっきり言っていた。遠く香港から日本のマスメディアを通じてみると、日本はそうみえるらしい。たまたま居合わせた自動車業界の日本人記者と顔を見合わせて、「そんなに日本って悪い国ではないと思うけどなあ」と話し合った記憶がある。いずれにせよ、こと経済においては落ち目の国と思われていたのは確かであり、そこらへんの国際常識とわれわれ日本人の感覚も、だいぶずれていたなあとは、これまた今になって思う。趙さんはジムやプールも完備した高級マンションに住んでおり、娘二人をアメリカに留学させるまでは頑張って働かなきゃと話していた。クライアントの私よりもはるかに良い生活をしていたのである。もっとも、狭い香港に永住してもキャリアには限界がある。アメリカか、すくなくとも上海の企業に就職したいという外向きな思考は、これまた当時の日本にはなかった。
印刷ビジネス展示会には一通り回ったので、正確な名称は忘れたが、販促グッズのビジネス展示会に移動した。香港島のビジネス街はとても洗練されていて、規模も大きかった。その街中にある展示会場(会場名を失念してしまった)もおそらく東京ビッグサイトよりも大きかったが、各会社のブースは展示会場にも入りきらず、廊下から会議室にまでブースが並んでいた。本当に日出る中国、沈む日本を感じさせた。なかなかショッキングだった。

香港民主化デモを経て


貧しかった私は、昼食は中華ソバを食べたが、箸袋を見ると銀座支店があってがっかりした。国際空港に戻り、搭乗口で帰りの飛行機を待っていると、香港観光局の人がよりによって英語でアンケートを求めてきた。「3日間で使ったお金はいくらですか?」と聞かれたので「2000円」と答えた。「うそでしょ、間違いでしょ」と何度も問われたが、本当に牛丼とラーメンしか食べなかったのである。もったいない出張だったなと、今になっては思う。


香港民主化デモ(Wikipedia)

あのさっそうとビジネスマンが歩いていた中心街に、2019年、200万人もの学生らが埋め尽くし、民主化を訴えた模様には驚いた。だが私個人は、このデモは鎮圧され、一国二制度も否定されるだろうと予想した。香港は中国の一都市となったことで、国際金融都市、商業都市としての存在意義が薄れていくだろうと、当時から思ったからだ。中国は超大国として、香港はもちろん、台湾や新疆ウイグル地区まで飲み込み、さらに膨張していくのではないかと懸念している。

たった3日だったが、あの熱気と勢い、そして民主主義と自由を謳歌していた香港はどこにいくのか。おそらく中国の一都市として落ち着くのだろうというのが私の見立てである。

あいも変わらずの先入観

香港の取材の5年後くらいには、私は新聞の紙面責任者になっていたが、「中国はまだまだ日本よりも経済も文化も遅れている」なんてことを書いたベテラン記者の原稿をボツにした。日本人があいも変わらずの先入観と根拠のない自信に頼っている間に、たった14年で、日本に追いつき、追い越してしまったのである。その兆候に触れられた、貴重な3日間だったと思う。

※画像や具体的な内容の著作権は新聞社に属するので、こんな中途半端な記事になってしまった。最後まで読んでくれてありがとう。

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