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核兵器の大統領専権と綱渡りの平和

アメリカの核兵器はアメリカ大統領のみ発射命令を出せる。命令を出せば数分以内に発射され、軍が反乱でも起こさない限り誰も止められない。核弾頭搭載ミサイルはいったん発射されたら取り消せない。つまりは大統領が「核のボタン」を押せば数分以内に1000発の核兵器が発射され、人類の文明は終わる。
違憲状態ながらも大統領に核兵器を管理する専権があるのは、そうしないと危険だと判断されたからだ。トルーマン大統領(画像)は広島にいつ原爆が投下されるかも、長崎に使われるのかどうかさえ知らなかった可能性がある。原爆が2発投下されたあとになって、トルーマンは軍に原爆投下を任せることの重大さに気づいた。レスリー・グローブス将軍が3発目の準備ができていると告げた時、ジョージ・マーシャル将軍が「(原爆は)大統領の承認なしには日本に対して放てない」と即答した。これが大統領専権の起源である。1948年9月。国家安全保障会議は「戦時における原子力兵器の使用決定は、大統領がそうした決定が求められると考える時に下される」と宣言した。

こうして核兵器の行使は大統領専権となり、大統領がいわゆる「フットボール」(核兵器の発射命令を出せるツール一式が入ったカバン)を持つことになったのだが、それはそれで極めて危うかった。ケネディ大統領は鎮痛剤を常用しており、思考が朦朧とすることがあった。ニクソン大統領はよく落ち込んで酒浸りになっていた。レーガン大統領は任期中にもアルツハイマー病に侵されていた可能性があるし、狙撃されて病院に搬送された際、「フットボール」の認証カードが病院のごみ箱に放置されるという事態が起きた。カーター大統領とクリントン大統領はそれぞれ2回、認証カードを紛失している。そしてなんといっても、癇癪もちで、金正恩の北朝鮮に対して核の脅しを行ったトランプ大統領も、「フットボール」を身近に持っていた。大統領一人の専権という人的要素は危うすぎる。

「フットボール」のモデル(Wikipediaより)


トランプ大統領の危うさに見かねた議会は大統領専権を外そうとしているし、ウィリアム・ペリー元国防長官らも著書『核のボタン』で「大統領の核の先制を終わらせ、『フットボール』を退役させよ」と提唱し、「大統領が核兵器を使用する前に連邦議会がそれを認めることが必要だ」と指摘している。
民主主義国家であるアメリカが核兵器の管理を議会の承認下に置くことは妥当だと私も考える。ただ、アメリカが一方的に大統領専権を終わらせたところで、問題解決にはほど遠い。なぜなら確実に北朝鮮の金正恩も、ロシアのプーチンも、イランの首長も、ほぼ間違いなく「フットボール」を持っているからだ。『核のボタン』において著者の視野は、対ロシアと、ささやかにイランと北朝鮮にしか向けられていない。しかし、リアリズムの視点でみれば、あらゆる国家、そして核拡散が防げなければテロ組織にまで核兵器を使用する可能性が出てくる。あらゆる国家や組織がアメリカに核攻撃を仕掛けた時、連邦議会の承認を待つことが果たして抑止力につながるのか。

私がこうした小論を書いた理由は、何度か記事にしている楽観的進歩主義への疑問である。
「長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているかもしれない」と論じたスティーブン・ピンカーの主張は、ひょっとしたら合っているかもしれない。しかしその平和は、これほどの綱渡りによって辛うじて成り立っていたのであり、今後それが続く保証は全くないのである。
進歩主義は、定義を変えると成立するかもしれない。すなわち人類の安全を促進する「善の進歩」(医療の進歩など)と、人類を数分で滅亡される「悪の進歩」(核兵器の開発など)が並行しているのが、現代社会である――そう考えると、進歩主義は妥当かもしれない。だが、だからといって未来を楽観視することはできない。

参考文献
ウィリアム・ペリー、トム・コリーナ『核のボタン』

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