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コンスタンチノ・ドラードという日本人

日本の「近代活版印刷の父」は本木昌造(1824‐1875)という人物である。長崎の通詞(通訳)の傍ら活版印刷に興味を持ち、1869年に長崎に活版伝習所を設立し活字鋳造に成功させた。印刷業界では本木昌造の命日である9月を「印刷月間」と名付けていろいろな式典を行なっているし、長崎にある本木昌造の墓には毎年印刷組合が墓参し顕彰する。各印刷業界団体が本部を置く日本印刷会館は、本木昌造の弟子(平野富二ら)が設立した築地活版製造所にちなんで、近隣で同じ中央区の新富町に建てられた。本木昌造は印刷業界ではレジェンドなのである。

しかしその約300年前、グーテンベルク印刷機を日本に初めて持ち込み、活版印刷に成功した日本人がいた。コンスタンチノ・ドラード(1567?―1620)である。

ドラードは九州のキリシタン大名である大友宗麟・大村純忠・有馬晴信によって1582年にヨーロッパに派遣された天正遣欧少年使節に随行した。使節は伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人の少年であるが、ドラード少年も随員として同行したのである。
ドラードは肥前・諫早生まれで、ポルトガル人の混血児であるとされるが、日本人名も不明など、詳しいことはわかっていない。リスボンにて活版印刷を習得し、帰路のゴアで『原マルチノの演説』の原稿を印刷したという。天正遣欧少年使節はグーテンベルク印刷機1台を持ち帰り、日本語活字の製造もヨーロッパで行っていたため、日本人で最初に日本語活版印刷を行ったのはコンスタンチノ・ドラードということになる。

では日本の活版印刷の父は本木昌造ではなくドラードなのだろうか。私は論点が2つあると思う。

1つは、日本語の活字を製造したのは、ドラード(および他2人の日本人随行員)なのだろうか。グーテンベルク印刷機を発明したのはほかでもないドイツのヨハネス・グーテンベルクだし、日本語の活字はジョルジェ・デ・ロヨラ修道士(日本人)の筆跡をもとにヨーロッパで製造したらしいのだが、それはドラードによるものなのだろうか。ゴアで印刷したのは確かにドラードだが、印刷技術の習得と実践を以て「活版印刷の父」といえるのかどうか。

2つ目は、これが重要なのだが、後世への連続性であろう。確かにドラードらが持ち帰った技術と設備をもとに「キリシタン版」といわれる書物が刊行された。しかしキリシタン版はキリシタン追放とともに終わったのに対し、同時代に持ち込まれた李朝の銅活字が古活字版の起源となりその後の整版文化の祖にもなったのである。

よく、アメリカ新大陸を最初に発見したのはコロンブスではなくヴァイキングだったという小話が出てくるが、コロンブスによる新大陸発見によってヨーロッパの新大陸進出が起こったのであり、歴史の連続性の中で事件が語られるべきなのである。

もっとも本木昌造の活字はウィリアム・ガンブルの指導のもと鋳造されたのであり、連続性という意味では築地活版所を実質経営した弟子の平野冨二(のちの石川島播磨の創業者)の功績が大きい。本当に「〇〇の父」というのは難しい。

なお、太平記もキリシタン版で印刷されたらしい。不思議だね。面白いね。

おわり。

参考文献

〇おらしょこころ旅
ローマに行ったもう一人の少年

〇ぷりんとぴあ
第9話 日本における近代印刷は本木昌造で始まった
第6話 日本にも伝来していた金属活字による印刷術


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