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虚脱―終戦直後の日本人

第二次世界大戦が終わるまで、「虚脱」という言葉は医学用語に過ぎなかった。
しかし、1945年8月15日の玉音放送を聞いた際の日本人の精神状況は「虚脱」という言葉こそぴったりであった。以後、「虚脱」は民衆全体の喪失感を指すようになり、広く使われるようになる。


玉音放送を聴く人々(Wikipedia)

アメリカ人にとって日本人との戦争は3年8か月だったかもしれないが、日本人は中国人との戦争を、満州事変から数えれば1931年から始めていた。1937年に盧溝橋事件が勃発、同年に中国の首都・南京が陥落すると、日本人は「やっと戦争は終わった」と確信した。国民もマスコミも諸手を挙げて戦勝を喜んだ。

しかし日中戦争は泥沼と化し、日本人はそこからさらに8年の緊張状態を強いられた。1941年12月8日、真珠湾攻撃。日本人は戦争遂行に全身全霊を捧げた。戦況が絶望的になるにつれて、日本人は神聖なる祖国のために玉砕を覚悟した。満州にいた5歳の少年は、ソ連が突如満州に侵攻したとき、父親から日本刀を受け取った。御国と家族のために死ぬことを当然のように覚悟した

軍人たちは石油備蓄が開戦後2年で切れることを危惧していたが、コメの31%、砂糖の92%、大豆の58%、塩の45%を外地に頼っていた日本は、次第に食糧難に陥った。カエル、ドブネズミ、牛馬の血液までを調理し、たんぱく質を補った。それでも日本人の過半数が栄養失調のまま戦争を継続した。
空襲によって東京では65%、大阪では57%、名古屋では89%の家屋が破壊された。人口の3~4%にあたる少なくとも270万人が死亡した。全船舶の5分の4、全産業用工作機械の3分の1、全鉄道・自動車の4分の1が失われた。それでも戦争を継続した。
広島と長崎に原爆が落とされ、ソ連が侵攻し、為政者たちはようやくポツダム宣言を受諾した。

日本人が玉音放送を聞いたとき、ショックを受けた後、安堵に包まれた者も多いのは事実だろう。翌朝のある農村では、農民の多くが寝坊した。多くの夫人は、これで外地から夫が帰ってくるだろうと希望を膨らませた。しかし外地に取り残された650万人の多くは、帰ってこなかった。満州だけでも約18万人の一般市民と約7万人の軍人が、降伏の後の混乱で命を落とした。ソ連によるシベリア抑留だけでも何十万人が命を落としたかいまだ不明である。

皇国のために、アジア解放のために全国民が戦った。東条英機は「打って出なければ日本は二等国、三等国に転落する」と訴えてきた。しかし日本人が堪え難きを堪えたのちに待っていたのは、マッカーサーの「日本は四等国になりさがった」という言葉であった。「四等国」という言葉は流行語になった。
3年8か月の戦争を生き延びた人々に待っていたのは、それよりも長い「栄養失調」であった。国民のほとんどは軽作業に最低限必要なカロリーをも摂取しておらず、児童の身長も著しく下がっていった。餓死者、浮浪者、孤児、戦争傷痍者に対する目はむしろ厳しかった。皇国の臣民だったはずの日本人が、食料や生産財の横流しで大儲けをし、やむを得ず、あるいは進んで性を売り、子供たちまでが「闇市ごっこ」「パンパンごっこ」に興じているさまを見て、日本人の胸は引き裂かれた。

確かに日本人は、絶望を乗り越えて、平和・民主主義国家を建設し、朝鮮戦争の特需をきっかけに高度経済成長を果たした。しかし一方で、戦死し、餓死し、栄養失調になったあげくアルコールや薬物に身をやつし、泥棒や強姦者、娼婦に成り下がった「虚脱の人々」を忘れることはできない。

先日、ある人から「東京地方裁判所の判事が餓死したのも、闇市を利用しなかっただけだろ。馬鹿じゃないの」との意見をもらった。その人は想像力が欠けている。毎年150万人にも闇市を利用せざるを得なかった人々を「経済犯罪人」として裁きつつ、政府の高官らが毎夜どんちゃん騒ぎしているのを横目で見ながら、闇市を利用する己を、どう解釈すればいいのか。山口良忠判事は闇市を利用したが、大半を子供たちに回し、自分は配給以外を拒否した。その結果、栄養失調に苦しみ、餓死したのである。


山口良忠判事

「戦争が起こったおかげで、今の平和がある。早く戦争が起こってよかったじゃない」ともその人は言った。戦後の私たちも、そのような教育を受けた覚えがある。しかしそれこそ、歴史を知らぬ者の驕りであり、歴史を学ぶ意義は、そういった理由で存在するのである。

参考文献
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』
古森重隆『魂の経営』
山本英史『現代中国の履歴書』
山田洋二監督『小さいおうち』

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