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ヘミングウェイの「自堕落さ」と「ロスト・ジェネレーション」


ヘミングウェイはマッチョか

アーネスト・ヘミングウェイにはどんなイメージがあるだろうか。二度の世界大戦やスペイン内戦に従軍、狩猟やボクシング、釣りや闘牛を求めて各地に赴く「行動する作家」だろうか。のちのハードボイルド文学の原型となる文体だろうか、威厳と力強さがにじみ出た顔つきだろうか。そんな「マッチョな」イメージが付きまとう。

それでは、彼がなぜ、「ロスト・ジェネレーション」の作家と呼ばれるのだろうか。

「ロスト・ジェネレーション」とは、「失われた世代」と訳されることが多いが、元はあるフランス人の自動車修理工場主がヘミングウェイに吐いた「おまえたちはみんなune génération perdue だな」という言葉である。Perdueはフランス語で「失われた」という意味もあるが、「堕落させる、破滅させる、だめにする」という意味もある。「ロスト・ジェネレーション」は「自堕落な世代」というのがふさわしい。

ヘミングウェイが自堕落だって?と思う方は、ぜひ『日はまた昇る』(1926)読んでいただきたい。たしかにスペインの陽光、フィエスタ(祭り)、闘牛の力強さは登場する。その象徴と言える闘牛士ロメロも登場する。

しかし、主人公はあくまでも性的不能に陥ったアメリカ人記者ジェイクである。皮肉なことに、彼と気持ちでは愛し合っている美女ブレッドは性欲を御せられない。それに加えて情念と暴力を御せられないコーン、金にだらしのないマイクが絡む。そんな肉体も精神も御せられない「自堕落な世代」(Lost Generation)は、闘牛士ロメロの肉体的・精神的力強さと節度に対してなすすべもない。

なんたる無力。闘牛とフィエスタと陽光の力強さに、一見生命の力強さをテーマにしているようで、実はその圧倒的な力の前に退散してしまうパリのアメリカ人の無力さ、不毛さがテーマなのである。

「ロスジェネ」とはなんぞや

この作品の前年、スコット・フィッツジェラルドが『グレート・ギャツビー』を発表する。この作品も大恐慌直前の空前の好景気に沸くアメリカを舞台にしている。主人公のギャツビーは自分を律した青年であったが、狂騒的な人間たちの餌食となる。というわけで狂騒的・退廃的なアメリカの若者たちは十分に描かれている。

フィッツジェラルドは大恐慌ののち、財産も名誉もあらゆるものも失うが、狂騒が去ったあとの沈滞した雰囲気のパリのアメリカ人の様子を描いた「バビロン再訪」という短編を残している。その印象が強いのか、日本では大恐慌以後の不景気の時代の世代を「ロスト・ジェネレーション」と勘違いしている人も多い。

日本でロスト・ジェネレーションといえば、池井戸潤『ロスジェネの逆襲』など、バブル以後の就職氷河期に当たってしまった世代を指すようだ。しかしヘミングウェイの世代は、むしろモラルに冷笑的で自堕落な世代なので、ニュアンスは全く異なる。

垣間見える本質的な弱さ

私は『日はまた昇る』が、ヘミングウェイの長編の中で一番好きだ。事故の後遺症の影響もあるとはいえ、最後は猟銃自殺してしまったヘミングウェイの、本質的な弱さも垣間見えると個人的には感じている。


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