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鎮懐石八幡宮の石~神功皇后伝説をひもとく~

今日は糸島市(福岡市の西隣)での仕事のついでに神功皇后じんぐうこうごう伝説で知られる「鎮懐石八幡宮ちんかいせきはちまんぐう」に行ってきたよ。
 
神功皇后は日本武尊ヤマトタケルノミコトの息子である仲哀ちゅうあい天皇の后ですが、特に九州北部には神功皇后にまつわる伝説が数多い。
 
ざっくり説明してしまうと、仲哀天皇と神功皇后は熊襲を討つために樫井宮かしいのみや(香椎宮=福岡市東区)に駐屯するのですが、そこで「熊襲くまそを討つより海を渡って新羅しらぎを征服せよ」との神託を得ます。ところが仲哀天皇はそれを無視して熊襲征伐に出たため敗走、神罰が下って死去します。皇后は天皇の遺志を継いで熊襲を征伐、なんと返す刀で海を渡って新羅を征伐し、百済くだら高句麗こうくりを屈服させます(三韓征伐)。
 
ところで、三韓征伐を行う際、神功皇后はすでに仲哀天皇の子を身籠っていました。しかし神功皇后は陰部を石で塞ぎ、体を冷やして出産を遅らせました。その石の一つがこの「鎮懐石八幡宮」にあったというのです。古事記(712年)にも日本書紀(720年)にも「筑紫国の伊斗村いとのむら」「伊都縣いとのあがたの道のほとり」にあったと明記されています。万葉集(729~730年)にも「筑前國 怡土郡 深江村 子負原、海に臨める丘の上に二石あり」と書かれ、「大きい石は、長さ一尺二寸六分、周囲一尺八寸六分、重さ十八斤五両」とまで子細に書かれているので石を祀っていたのは確かでしょう。
 
というわけで、筑前深江駅から海沿いを歩いて10分。こじんまりとした標高20メートルほどの丘にひっそりと神社があった。

鎮懐石八幡宮

入り口には九州最古の万葉集の歌碑が。なんでも当時、筑前国主に任じられていた山上憶良やまのうえのおくらが鎮懐石神宮のことを詠った歌だそうで、1859年に彫られたという。


山上憶良が万葉集で鎮懐石八幡宮を詠った内容を1859年に彫った歌碑。

急な坂を上ると神社の本殿が見えてきます。

急坂が2つあったがもちろん緩い坂を選択。

もちろん鎮懐石ではありませんが、安産のご利益がある石が祀ってある。


触ると安産のご利益が。

びっくりしたのは展望台からみえる玄界灘の絶景。なんと正面には野村望東尼が乙丑の獄で流され、長州藩によって救出されたという姫島が。


もとは展望台に本殿があったらしい。

なにせ神社から約50メートルで砂浜だもんね。


博多湾とは波の勢いが違う気がする。

というわけで小ぶりの丘にただずむ心安らぐ神社でしたよ。
ところで、この神社、安産のご利益があるそうですが、陰部に石を詰めて出産を遅らせた故事にちなんでいるのに、大丈夫なんでしょうか。
 
――大丈夫なんです。神功皇后は「宇美」(福岡県糟屋郡)で「産み」、「志免」(同)で「おしめ」を替えて、子どもはすくすくと育ったのですから。その育った子は後の応神天皇。武技に優れ、八幡神として後の武士に崇拝されたのですから、折り紙つきです。
 
ちなみに神功皇后が温泉を発見した時、「あな、うれしの」と言ったことから嬉野うれしの温泉(佐賀県嬉野市)と呼ばれるようになりました。

だじゃれのような真面目な話でした。
 
参考文献
鎮懐石八幡宮ホームページ
石村智『地形と歴史から探る福岡』

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